「孫は可愛いけど世話はイヤ!」
孫疲れの高齢者が増えています。特にお正月やお盆の帰省シーズンは、全国のジジババたちの悲鳴があちこちから聞こえます。実際私の周りでも、孫疲れを訴える人が激増中。姉もそのうちの一人です。
孫は来てよし帰ってよし
私には年の離れた姉がいます。姉には二人の孫(長男の息子)がいて、甥っ子夫婦は共稼ぎ。家が近いこともあり、度々SOSを発信し、その都度姉は孫の世話に駆り出されています。
体力が持たない
ただ寝ているだけの赤ん坊とは違い、小学1年生と年中さんの男の子ともなれば、少しもじっとなんてしていません。活発に走り回る後をついて歩くだけでもうヘトヘト。最近は土日ごとに泊りがけで来るようになり、体力的にも限界だそう。
精神的なストレスも甚大
「預かっている間に怪我でもさせたら大変」という精神的なストレスも甚大。いっときも目が離せない緊張感は、とうに子育てを卒業し、夫婦だけで静かな暮らしをしている姉には計り知れない重圧になっているようです。無責任だからこそ可愛いのに、これでは可愛いとばかり言ってられませんよね。
金銭的にもキツイ
金銭的な負担も重く肩にのしかかります。
例えば食事代。体が疲れていると食事の支度は面倒だから外食でも…となりますが、支払いは姉夫婦です。年金生活者である姉夫婦にとって、その支払いも正直キツイと漏らしてました。
「孫は来てよし、帰ってよし」と言われますが、その言葉どおり「帰ると本当にホッとする」と言ってました。
無理は禁物
その話を聞いた私の感想。「少しくらい無理してでも、子供が困れば助けるのは親として当たり前」と思う親に対し、「孫は宝物のはずだから、孫の世話をさせるのは親孝行」と思う息子夫婦。お互いの善意が空回りしているように感じました。
そしてこれは外野席からおせっかいを承知の上での意見。後々長い付き合いになることを考えたら、無理は禁物だと私は思いますけどね。
甥っ子は孫の顔を見せるのが親孝行だと思っている
甥っ子はとにかくおばあちゃん子でした。私の母は本当に彼を可愛がりました。だから姉たちに孫の顔を見せることが親孝行だと信じきっているのです。
実際私も甥くらいの年頃には「高齢者の幸せは孫に囲まれて暮らすこと」と信じていました。昔の演歌で「孫という名の宝物」というイメージだけで「高齢者にとって、孫は目の中に入れても痛くないほど可愛いもの」と思っていました。
確かにそうだけど、それと世話は違うのです。それを母から教わりました。
育てるのは親であって祖父母ではない
結婚当初、美容師として生涯働き続けたいという希望を持っていた私は、ある日冗談めかして母にこう言いました。
「もし私に子供ができたら、孫の世話、よろしく」
母はキッとなって「自分が欲しくて産むなら、自分の子供くらい自分の手で育てなさい!」と言い返してきました。正直、その時は冷たいなと思いました。
しかし今は、母の言い分が正しいと思っています。親になってまで、おんぶに抱っこはありえません。
「孫が生きがい」という勝手な思い込み
母は山形から東京に嫁ぎ、仕事を続けながら4人の子供を育てあげました。
実家に頼ることもできず、それはそれで大変だったと思います。自分が大変だったから孫の世話をしてあげたいと考える人もいるようですが、母は違いました。
だからその当時は「なんで世間の親のように、孫を生きがいにしないんだろう?」と、私は不思議でした。
でもそれは「世間一般の高齢者」に当てはめようとした私の勝手な思い込みで、母にとっては大きなお世話でしかなかったようです。
生きがいは人それぞれ
いくら親子であってもモノサシは人それぞれ。
母は「子育て10年・子離れ10年」そのままの人。母の生きがいは仕事であって孫の世話ではない。子供を育てるのは親であって祖父母ではない。孫の顔を見せるのと、世話を頼むのはまるで違うという、世間一般の能書きをまんま信じていた当時の私は、こんなかんたんなこともわからなかったのです。
母はきっと「私にできたことなら、あなたにもできるはず」と言いたかったのでしょう。独立した大人として、そうあってほしかったのだと思います。
「祖父母の役割りは、本当に困ってSOSを出した時にそっと手を差し伸べる程度の脇役でいい」と。「子供にとっての主役は親であるあなただ」と。「最初から親をアテにするような気持ちなら、親になるな」と言いたかったのです。
親子といえど独立体
ここまで書いて、ふと自分の新婚時代のことを思い出しました。結婚してひと月くらい経った時、何かの用事があって実家に行き、所要を済ませて自宅に戻ったら、なぜかホッとしたのです。その時、感じました。「もうあの家(実家)は私の家ではない。私の家はここだ」と。
それはきっと、母も同じかも。娘が家庭を持って独立すれば、(最初は寂しいと言ってたけど)やがて自分のペースが出来上がります。そのペースがやっと出来上がって、これからは自分の好きに暮らそうと思った矢先に孫の世話なんぞを押し付けられれば「ちょっと待てぃ!!」と言いたくもなるでしょう。
思い込みは感謝とは遠い存在
甥は今、自分の暮らしのために親の協力を得ている感謝の意識より、孫の顔を見せて親孝行をしてあげているという意識の方が勝っているようです。
祖父母なら孫を可愛がるのは当たり前、親なら自分の子供が困っていれば協力するのが当たり前という、そんな意識でいるみたいです。
しかしどんなことでも「当たり前」になってしまえば、「感謝」はどんどん薄らいでいくものだということを、甥はまだ気づいていません。それに気づくのはもっとずっと後でしょう。
周囲を見渡しても、毎日幼稚園の送り迎えを頼まれている老親たちをよく見かけます。数々の困難を乗り越え、自分の老いを日々感じながら過ごす今になって、走り回る孫の面倒をみる毎日…。
しかも、やって当たり前だから感謝もされない。それどころか「甘やかすな」と文句まで言われる。
孫は責任がないから可愛いのであって、責任が発生すれば可愛いだけではすまなくなる。これぞ絵に描いたようなくたびれ儲け。
私はそんなの、ぜぇーーーったいイヤだわ。
世話をするのは当たり前だと信じ、老体に鞭打って我が身と神経をすり減らす全国のジジババに、謹んでねぎらいの言葉を贈りたいと存じます。以上!
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