昨日容態が急変し、眠るように天国へ旅立ったヴィオレ。
お骨にするのは明後日なので、ヴィオレの遺体は自宅の定位置(ソファの上)にいます。まるで寝ているみたいで、亡くなった実感はまだありません。
これから少しずつ失った存在の大きさを実感していくのでしょう。
そんな状態を世間ではペットロスと呼びます。時間を逆戻りできないのなら、早送りして喪失感を感じなくなる地点まで一足飛びに走っていきたいです。
でもこればかりは避けて通れない道。それなら今しか味わえない、とっちらかったグシャグシャなこの感情を正直に綴りたいと思います。
いつもと同じ朝なのに
今年に入って夜泣きをするようになったので、この数ヶ月間、起床時間はいつも明け方。それが習慣になったので、今朝も早く起きてしまいました。
頭ではもうその必要はないことがわかっていても、一度習慣化されたことを元に戻すには、それ相応の時間がかかりそうです。
寝室から降りてきて、目覚めることのないヴィオレにいつものように「おはよう」と声をかけた次の瞬間こう思いました。
「昨日の今頃はまだ生きていた」
そう思った瞬間、たった一夜で天と地がひっくり返ったような気分になりました。
「いつもと同じ朝」を迎えたのに、今朝から「いつもとは違う朝」が始まり、それがこれからの「いつもの朝」になっていく。そうしてヴィオレがいないまま人生は続いていく。
いてくれるだけでいいと思ってた子が明後日にはこの家から姿を消す。
「その次に迎える朝はどんなことを思うのだろう?ヴィオレのいない朝が当たり前になるまで、どれほどの時間を要するのだろう?」
頭の中でそんなことをぼんやりと考えてました。
病院からお花が
午前中、癌センターからお花が届きました。続いて地元のかかりつけ医からも電話が入りました。こんな瞬間はヴィオレがいなくなったという現実に引き戻されます。
同時に病院でのこの一年のことを思い出してました。
手術で痛い思いをさせ、入院で心細い思いをさせ、何度も血を抜き、何時間にも及ぶ抗がん剤を11回も繰り返してきたのに、それでもこうして死んでしまう。
その時はひとつひとつ医者や家族と話し合い、考えた末に納得して進んだ道でした。最後の最後までヴィオレの生命力に賭けてきました。
でもこうなってしまった今、手術や抗がん剤という苦しい治療をさせたことは果たしてヴィオレのために良かったことなのか?
答えはまだ見つかりません。
もう病気とはさよなら
写真は病院の待合室でのヴィオレ。ここに来れば何をされるか察知して、心細気なこんな表情をよくしてました。
我慢強い子だからじっとおとなしくしていたけど、後半になると嫌そうな素振りをよく見せてました。
以前なら車でお出かけするのは楽しい場所ばかりだったのに、この一年というもの、車に乗せるのは病院に行くときだけ。
車のキーを持つと以前なら「連れてってー」と、我先にすっ飛んで来たのに、少し前からキーを持つと警戒するようになりました。そのくらい病院がいやだったのです。それでも病院に連れて行って苦痛を与え続けてしまった後悔の念が、心に刺さった棘のようにチクチクと疼きます。
「苦しみも痛みもない世界に行ったのだから、もう病院には行かなくていい。」
病院での、あのすがりつくようなヴィオレの顔を思い出すとそう思うし、でもせめて、あともう少しだけ一緒にいたいと思ったからこそ一筋の光を求めて治療を続けてきた。そんないろんな思いが今、グルグルと交差してます。
でも一つだけ良かったと思えるのは、コロナ禍で自宅にいる時間が増えて、最後はつきっきりで面倒が看れたこと。今月に入ってからの二週間はつらい二週間だったけど、濃密な二週間でもありました。
最後に
この3月は世界規模で忘れられない年になりそうですね。それは別の意味で私も同じ。私の人生において、ぜったいに忘れられない年になるでしょう。
最新情報をお届けします
Twitter でvioletをフォローしよう!
Follow @violet2005