Violet@Tokyo

親の役割り・子の役割り

約5分



昨日は母の49日法要がありました。

突然の訃報に頭が真っ白になり、葬儀終了までの数日間は自分が何を考えていたのかも思い出せずにいました。

しかし少しずつ心に余裕が生まれた今、日々の暮らしを淡々と過ごしつつ、時折母と過ごした日々を思い出しながら生活しています。

そんな中、ある人から言われたこの言葉。

「お母さんは、あなたに自分の”死に方”を見せて”生き方”を教えているのよ」

その言葉をきっかけに、親の役割りと子供の役割りについて考えるようになりました。

自分なりにその答えに近づいたので、ちょっと書いてみようと思います。

親の役割りと子の役割り

結論から言えば、親の役割りはたった3つでいいと思っています。

産んで育てること。

生きざまを見せること。

死にざまを見せること。

そこから何かを学び取るのが子供の役割り。

親は常に正しくなくてもいい

生きざまを見せて子供に何かを教える場合、親は常に「正しい人」であるべきかといえば、「反面教師」という喩えもあるように、正しくなくてもいいし、もっと言えば「親だから」というだけで、完璧を目指す必要はないと思っています。

実際私の両親なんて欠点だらけの人でした。例えば私の父なんて短気で口下手だから、カッとなるととんでもないことを言い出すことがよくありましたが、私はそれを見て「短気は損気」という生の実例を父から学びました。

このように、欠点も含めて私の”お手本”なんです。生の実例は卓上の空論よりも、ネットの情報よりも、はるかに確かです。

親にとって溢れすぎた情報は足かせでもある

親の役割り.子の役割り.生き様.死に様

母たちの時代は、今のようにかんたんに情報が手に入る時代ではありません。

専業主婦が当たり前だったあの時代、ワーキングマザーだった母に役立つ情報なんてどこにもありません。男は外でバリバリ働くものとされたあの時代、私の父は積極的に子育てに参加していましたが、父に役立つイクメン情報だってどこにもありません。

でもむしろ、それが良かったのかもしれません。溢れすぎた情報は、ある意味足かせ。

例えば生後半年で保育園に預けて働きたいと願う母親がいたとして、多くの情報が「子供は3才までは母親が育てるべき」となっていれば、働きたい母親は多少なりとも罪悪感を抱きながら働くことになります。

でもうちの両親は罪悪感を抱くことはなく、二人で協力しあって、時には口喧嘩ををしながら仕事と育児を両立させてきました。

今なら「子供の前で夫婦喧嘩するなんて、虐待もいいところだ」と、小町あたりで袋叩きにされるでしょう(笑)

PCもない時代。今より不便だったかもしれません。でも情報に縛られることも今より少なく、それにより自分たちなりの正解を自由に追い求めることができたのだと思われます。

絶対的な正解なんてない

親の役割り.子の役割り.生き様.死に様

私は、絶対的な正解なんて絶対にないと思っています。あの人にとって正解だったとしても、それがイコール、自分の正解ではないのですから。

例えば金八先生が言うところの「親は木の上に立って子を見守る」のが「正しい親の型」だとするなら、うちの親は木の上から足を滑らせるタイプだったので、世間一般で言うところの立派な親ではなかったかもしれません。常に正しい生き方をしたかといえば、そうとも言えません。…というか、はっきり言えばかなりドジでした。

しかし木登りは苦手でも、その代わりに自分が得意とする別の場所から見守り、危ない時だけ声をかけてくれたように思います。世間一般の型はどうあれ、正しくあろうと努力してきたことは確かです。

必要なのは、今は正解かどうかはわからないけどスタートすること。最後に「まあまあ正解だったかな?」と思えるように歩み続けること。それだけでいいのではないでしょうか。少なくとも「正しい型」にこだわる必要なんてないのです。

それに最初から正解が用意された人生なんてつまらないじゃないですか…と、そんな風に感じるのも、あの型破りな親があってこそかもしれません。

さてここからが子供の役割り

そんな二人も今は墓石の下。

「やっと会えたね」と、仲良く並んだ二人の骨壷を見て、姉は声をかけました。

「会えたら会えたで、またケンカするんだよ」という私。

死んでもなお、娘たちに言われっぱなしの二人は、今頃反論もできず、きっと苦笑いしていることでしょう。

今までは父がいなくても母がいたから実感はありませんでした。でもさすがに昨日は二つ並んだ骨壷を見て「ああ、本当に二人ともいないんだ」と体感しました。

同時にここからが自分の足だけで歩む人生、つまり、親が示してくれたフルコースの教えを、どう解釈して自分の実にしていくかという課題が生まれます。

その課題に取り組むのが子としての役割り。道に迷った時、どの方向に進むべきか、道を照らしてくれる親はもういませんが、親の歩みをヒントにすることならいくらでもできます。そう考えると、これからが本当の意味での自立です。

最後に

これからの日々は全くもって白紙です。でも「二人がきっと見守ってくれている」と思うと、不思議と寂しさや不安は感じていません。私がそう感じているということは、母が安心して天国に旅立った証です。この世に思いを残すことなく精一杯生きた証です。

冒頭、私にかけられた言葉、「“死に方”を見せて”生き方”を教えている」はきっと、そんな意味合いだったのかもしれません。49日を終えた今、自分なりにそう解釈しているところです。

 

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このブログは私が日々感じたこと、考えたことに独自の視点を交えて書き留めている忘備録です。読者の方に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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