ネットで調べ事をしていたとき、こんなフレーズが目に飛び込んできました。
「一億円をためて幸せなお金持ちになろう!」
あまりにも陳腐すぎて短絡すぎて、ちょっと笑っちゃいました。同時に、私が過去に言われた言葉を思い出しました。
条件ありきの幸せは不幸を招く
結婚と同時にマイホームを建築したときのこと。引っ越し直後でたまたまそのときは仕事をしていなかったわけですが、そんな私を見てある人がこう言いました。
「あなたは幸せね」
多分その人の中では住宅ローンを抱えれば、夫婦で必死になって働くのがあたりまえと思い込むあまり、それをしてない自分よりずっと若い私を見て、「仕事をしなくても暮らせる人。だから幸せな人」と、勝手にそう判断したのでしょう。
他人のふところ事情を詮索する品性のなさもさることながら、「○○だから幸せ」という条件を優先した決めつけ方に、なんとも言えない違和感と嫌悪感を抱いたことを思い出します。
冒頭の「お金持ちだから幸せ」もそうですが、「孫と暮らせるから幸せ」、「一流企業に勤めるから幸せ」、「マイホームがあるから幸せ」、「子供がいるから幸せ」…。
幸せを心で感じるのではなく頭の中で考えて条件付けをする。こんな考え方をする人は、意外と多いです。
でもこれは、幸せとは対局の位置にあります。そんな形にとらわれて、今、目の前にある自分の幸せな状態に気づかない、気づこうともしない。
これを不幸と言わず、なんと言う?
すべて失ったとき、初めて気がつくのだろうか?
せっかく今、幸せが目の前に、自分の傍にあるというのに。
幸せかどうかなんて条件だけでは決められない
例えば一億円ためれば幸せかといえば、そうとは言い切れません。次は二億円を目指したくなるでしょう。もしかしたら十億持っている人に対して嫉妬するかもしれません。これではあまりにも豚に真珠すぎるって思いません?
孫と暮らせるから幸せ?
孫の可愛い旬の時期なんてほんのわずか。周囲の高齢者を見る限り、「一日中孫の面倒なんてまっぴらだ」と言ってます。
子供がいるから幸せ?
そうじゃないでしょ。ともに過ごす瞬間瞬間に感じる積み重ね、それを幸せと言うんじゃない?
一流企業に務めたから幸せ?
退職すれば、イコール不幸ってことですか?
そうではないですよね。つまりは、条件だけでは決められないということです。仮にその条件を全て満たしたとしても、幸せな未来が確実に待っているわけではないのです。
それがわからず形に当てはめようとする人は、そうならなかった自分に無力感を抱きます。条件を満たしている人を見ては嫉妬の炎に身を焼き、条件を満たしてない人を見れば勝手に不幸だと決めつけて優越感に浸ります。
私にとっての幸せとは
私にとっての幸せは、な~んともない一日を、な~んともなく過ごせることです。
「ああ、今日も良い一日だった」と思いながら床につくことです。
と、こんなことを言うと平凡すぎて笑っちゃうって思います?
若い頃は私もそんなことを思ったものです。尻の青い、わかった気になっていただけの頭でっかちだった当時の自分は確かにそうでした。
でもね、この年になるとこう思うのです。
アップダウンの激しい道のりを歩んできた末に得た悟り。それは、平凡の持続こそ非凡なのだと。そして、それこそが究極の幸せなのだと。以上です。
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