Violet@Tokyo

「施しは傲慢」という批判で思うこと

約 6 分



「スラム街の暮らしを肌で感じたい!」というクラウドファンディングが炎上しました。すでに元記事は削除されているため、魚拓の元記事をどうぞ。気に入らないと思ったの、この一文。

スラム街にはたくさんの子供がいます。子供達は、外部の人との交流が少なく遊びも限られ毎日単調な日々を過ごしています。

まだそこに行ったわけでもないのに、自分の目でその現場を見てもいないのに、なぜ「外部の人との交流が少なく遊びも限られ毎日単調な日々決めつける?」という違和感。そして彼らにとっての生活の場に、物見遊山で行こうとすることに対する反感。そんなきっかけから関連するツイートを読んでいたら、こんな一文が。


「何かを与えたいという傲慢さに気がついてくれればと思います」というこの言葉を読んだとき、亡き父を思い出しました。

これからのお話は、クラファンの大学生とは性質が全く違います。「施しは傲慢だ」と非難されたことと、頭で決めつけるのは良くないと反省していた父を思い出した自分語りです。ただの個人的な思い出話です。興味のある方だけどうぞ。

なぜか留学生の溜まり場になった我が家

私が中学生の頃、実家にはある日を堺に、東南アジアからの留学生が訪ねてくるようになりました。理由を親に聞きました。

なんでも父が冬用の衣類を買いに行った先で、一人の留学生にお金を貸したのがそもそもの始まりだそう。父が会計をしようとレジに並んだところ、その前にいた留学生の姿が目にとまりました。

冬なのに薄着で寒々しい格好をしている。いかにも安っぽいいでたち。コートを買いに来てたようだけど、どうやら手持ちのお金が足りないらしい。たいして高くもないコートなのに…。

咄嗟に父は、店員さんにこう告げました。

「足りない分は私が払います」

ついでに自分が買おうとしたセーターを、「私が着るより君が着たほうが似合うよ」と、自分が買ったセーターを彼にプレゼントしました。

父の中では「みすぼらしい格好=東南アジア=後進国=貧しい」みたいな方程式が成り立ち、咄嗟にそうしたのだと思います。なによりも「こんな寒い日にあんな格好で」という気持ちがいちばんだったのでしょう。

後日、その留学生はお金を返しに来ました。別に返ってこなくてもいいと思ってたお金だったので、母は食事を振る舞いました。

「次は友達も連れておいで」

批判された両親

それ以降、週末ごとに多くの留学生が実家に来るようになりました。

すると近所の噂になり、批判殺到。「施しは傲慢だ」と、上記のツイートと全く同じようなことを言われました。当時は今と違って東南アジアの人に対する偏見もあり、「何か事件でも起きたらどうするんだ?」と、治安上のことを言う人もいました。

でも両親はそんな批判をもろともせず、「日本のお父さん、お母さん」と慕ってくる留学生にはいつもどおりに接してました。

結婚式に招かれた両親

そんなことが10年くらい続いたでしょうか。一人が卒業すると、代わりの留学生が我が家を訪ねてきます。国に帰ると、これから留学する人に「日本に行くならあの家に行け」と伝えていたそうです。

ある日両親宛に、結婚式の招待状と航空券が届きました。

卒業して国に帰り、一流企業に就職したかつての貧しい留学生が結婚することになったのです。日本のお父さんとお母さんに、今の自分を見て欲しい。愛する妻を見て欲しいとの思いです。

両親は喜んでその招待を受けました。

決めつけは恥・かわいそうは傲慢

そこで両親が見たもの、それは日本では貧しい留学生だったけど、自国では裕福な家庭のご子息だったこと。それを知った時に「自分を恥じた」と語ってました。

「みすぼらしい格好をしていたから”かわいそう”と決めつけてたけど、考えてみると”かわいそう”というのは傲慢だよな…」

今で言うところの、”上から目線”という気持ちが、自分の中にはほんの少しだけあったのかも、と言いたかったのだと思います。

「近所からの批判も耳にしていたし、いろいろ言われていることも知ってたけど、その時は自分が良いことをしていると信じてた」

最初はただ、目の前で困っている人を見過ごせないという思いから発した行為でも、やがて自分の中に、どこかで施しの気持ちがあったかもしれないと、ポツリと口にしてました。

批判にどう向き合うか

大人になった今、あらためてその言葉の意味を考えてみました。人としての行為と、世間の批判に向き合う親の態度は正しかったと思います。

批判を無視したことではありません。その時は無視してても、批判を頭の片隅に留めて、後日それを自問自答したことです。

違う視点はあってあたりまえ

これはどんなことについても言えることです。そのとき自分が正しいと思ってしたことでも、批判する人は必ずいます。それを知れば面白くないし、ショックを受けます。でもそれで終わりにせず、相手には相手の言い分があり、自分の枠の中だけでは思いつかない指摘がそこにはあるのだと、この出来事を通して知りました。

批判されたことだけに気を取られるのではなく「なんでこの人はこう言うのだろう?」と、自分とは違う別の視点で考える癖をつけていかないと、自分に心地よい人とだけ接するようになります。

「私は何も悪いことなんてしてない」と言い切って、「批判は悪」と決めつけるのが最近のブログ界隈の風潮。

でも全てが正しい人なんて、本当にいるのでしょうか?

絶対に何も悪くない人なんて、本当にいるのでしょうか?

「謝ったら死ぬ病」にかかり、それら全てを突っぱねた先に待っているもの、それは、完全に思考停止した人たちによる懲りない炎上と、永遠に消えないデジダルタトゥー。

私はこういう人の方が、人として怖いです。

もっと怖いのは声が大きく目立つ人の声を信じる、見ても見えない、聞いても聞こえない耳を持つ信者たち。

炎上案件が起きるごとにそれを感じます。

世の中には多くのコンテンツが出回ってますが、やはりこうなると、批判の中にでも実は真実があるのだと、2つの意見を比べて正しく読み解く読解力が必要になってきますね。以上です。

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はじめまして。このブログを執筆しているViolet(ヴィオレ)です。
このブログは私が日々感じたこと、考えたことに独自の視点を交えて書き留めている忘備録です。読者の方に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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