Violet@Tokyo

あたりまえの幸せをかみしめている年末年始

約3分



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ワンコたちを連れて初詣に行きました。写真は初詣のために着せたお洋服。お正月なのでガーリーに決めました(笑)

「今年も家族みんなが健やかに、穏やかに暮らしていけるように見守っていてください」と、手を合わせ、そんな願いを神様に伝えました。

私にとっての家族とは、夫と2匹のワンコたち。犬を飼っていない人には理解できないかもしれませんが、飼い主にとって犬は家族同然です。

昨年11月に10歳になったレッドの子と昨年12月に7歳になった白い子。白い子はともかくレッドの子は、犬の平均寿命から言えばすでに半分以上過ぎています。時々、「あとどれくらいこの子たちといられるのだろう」と思います。いつまでも一緒にいたい。それが今の願いです。

あたりまえこそがスペシャルな贈りもの

10年も一緒に暮らしていると一緒にいるのがあたりまえという感覚を抱きますが、考えてみれば、このあたりまえこそが何物にも代えがたいスペシャルなものだと最近つくづく感じます。

つい先日、義兄(姉の夫)が肺炎で入院しました。容体は芳しくなく、はっきり言って危ない状態。そのため、姉は正月どころではありません。そんな様子を見るにつけ、こうして家族そろってお正月を迎えられただけで幸せなんだと、あらためて感じたわけです。

一緒にお正月を迎えられない人の存在を強く意識した2016年

あたりまえの幸せをかみしめている年末年始

少し前は、お正月が特別なものという意識はありませんでした。「年末に買いだめなんてしなくても、スーパーは正月から開いているのに、なんであんなに騒ぐのかしら?」とか、「正月番組はつまらないし、どこに行っても混んでいるし、早く三が日が終わっていつもの日常に戻らないかしら」、なんて思っていました。

昨日の続きが今日であるというだけで、誰にでもあたりまえにお正月は来るものだと思っていた私でしたが、親友の死をきっかけにしてその意識が大きく変わりました。

高校卒業以来、毎年欠かさず新年会をやっていました。だから新年会はやるのがあたりまえ。お正月にみんなが揃うのがあたりまえだと思っていました。でも今年は、彼女がいない新年会です。それを考えると、全員揃っていたあの頃がとても幸せで、それはもう二度と戻ってこない宝物のような時間だったと思い知らされます。

幸せを感じる心を持ち続けたい

彼女の死は私の意識を大きく変えました。あたりまえというのはとても幸せな状態であると、彼女は私に教えてくれました。

今、あたりまえにできることが、いつかできなくなる日が来るでしょう。毎日のようにバドミントンができる体力と気力があること、その環境があること。それだって今はあたりまえのことになっていますが、やがて年をとれば、それはあたりまえではなくなります。そう思うと、バドミントンができる今は幸せです。

ペア問題など、悩みはいろいろありますが、それだって、今あたりまえにできるからこそ出てくる悩みです。できなくなれば、その悩みさえも贅沢なものに感じるでしょう。

与えられた環境の中で幸せを見つけていきたい。これからはそんな生き方をしていきたいと思っています。

 

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このブログは私が日々感じたこと、考えたことに独自の視点を交えて書き留めている忘備録です。読者の方に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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