人が死ねばお葬式をするのは当たり前。
日頃信仰心なんてなくても、その時だけはお坊さんにお経をあげてもらって、何十万もの大金を払って戒名をつけてもらうのは当たり前。
その後火葬して、もろもろ一通りのセレモニーをつつがなく終了したら、食事の席を設けるのは当たり前。
これまで何度となく様々な葬儀に参列しましたが、「これがお葬式のスタイルなんだ」と、何の疑いも持たずに生きてきました。
「葬儀は誰のため?」と感じた母の葬儀
ところがある迷いが生じてきました。
それは今月3日に93歳で亡くなった母の葬儀に参列した時のこと。
親族以外の顔ぶれを見ると、「あの人誰?」みたいな、母とは一面識もないような顔ぶれの数々。どう考えても母との繋がりで来ているのではなく、喪主との関係で来ている。
と考えると「葬式は故人のためではなく喪主のため?」というモヤモヤした気持ちが頭をもたげ…。
もちろん年齢も年齢だから、母と親しくしていた人のほとんどは天に召され、生きていたとしても葬儀にまで参列できる状態ではありません。だから体裁を保つために代打で誰かを出してきます。
それが世間一般で言う「お付き合い」であり、日本のあちこちで繰り返されてきたこと。
でも故人はどうでしょう。生きている間は様々なしがらみに縛られてきた世代。死んでまで、そんなお義理を喜ぶのでしょうか?
もし私ならと考えると「数は少なくてもいいから、ごく親しい人だけが見送ってくれればいい」って思うわけです。
日本人の葬儀費用は平均231万円
そんな時に手にしたこの本。島田裕巳(著)「葬式は、要らない」
私にとってタイムリーな一冊。宗教学者によって書かれているので興味をそそられました。
読んでみるとなるほど、葬儀ビジネスにまんまと乗せられている自覚もなく、それどころか「平均費用231万円」もの大金をはたくことが 「故人に対する供養」と信じて疑わない風潮に一石を投じる内容でした。
今や葬儀は供養という名を借りたビジネス
それにしても、いつから「供養」という二文字は、「見栄」と「世間体」をカモフラージュするための便利な言葉になってしまったのでしょう?
例えば今回喪主をつとめた兄も、最初は家族葬でいいと考えていました。
ところが業者は「商売をしていればそうもいかないでしょう」と、こちらが考えていた当初のプランから大きくかけ離れた内容のプランを提示。「見栄」と「世間体」の部分を巧妙にくすぐるわけです。
突然の死で思考能力も麻痺している兄は、もう業者の言いなりです。「立派なお葬式を挙げるのが供養だ」と言われれば「一番安いプランで」とは言えず、こうしてわずか数日間のうちに大金が流れていきました。
食事だってそう。当初は身内だけのつもりだったから「火葬している間にお弁当を食べて、その場で解散」なんて言ってたのが、結局はレストランに移動して会食をするわけです。
当然ながら母を知らない人が集まる席ですから、誰一人として母の思い出話しなんてするわけがなく、ちょっとした宴会気分で「飲めや食えや」と楽しんでいる。
挙句、「これ以上飲んで酔っ払ったから(喪主である兄の家に)泊まる」とまで言い出す人もいる。どんだけ喪主が疲れているのかを思いやる気持ちなんて1ミクロンも感じられない、実に不愉快極まりない光景でした。
母の葬式だというのに、見ず知らずの人と食事をする羽目になった私は「この中の、いったいどれほどの人が心から母の死を悲しんでいるんだろう?」みたいなことを感じてしまいました。
最後に
人の死に際し、見送る側にとってお別れの儀式は絶対に必要なものです。それをすることで一つのケジメがつきますから。
しかしそれが故人置き去りで、「この葬儀は一体誰のためのもの?」と感じる内容であってはならないと思うのです。私が考える理想は、故人の希望が7に対し、喪主の都合は3でいいと思っています。
そのためには生前に、どんな形が理想で、誰を呼んでほしいかを、家族でしっかり話し合っておくことが必要ではないでしょうか。
今は希望に沿ったプランが、いくらでもネットで調べられる便利な時代です。
精一杯人生を生き抜いた後に迎える最後のステージは、シンプルかつ心がこもったものでありたいと願うのは、私だけでしょうか。
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