2年間、ガンと真っ向から戦った友人の通夜と告別式が、今日無事に終わりました。
今まで”人の生き死にや人生とは何ぞや”ということをあまり考えなかった私ですが、二日間、彼女の死を心から悼む人々を目の当たりにして、あらためて考えました。
幸せの形は人それぞれで、彼女の人生は、短かったけど、とても幸せなものだったと…。
心に大きな穴
彼女の訃報から数日経過し、まだ実感がありません。数時間前、収骨までしたというのに、まだ現実のものに思えないのです。
これからじわじわとさびしさが押し寄せてくるのかもしれませんが、悲しいというよりポッカリと心に大きな穴が空いたというのが今の正直な気持ちです。
やっと楽になれた、彼女の人生はとても幸せなものだったと思う反面、やはり悔しいなという思いが入り混じり、今はまだ気持ちの整理がつきません。
楽しいことをもっと共有して一緒に年をとっていきたかったです。また会える気がして「またね」という言葉をかけてきました。まだ「さようなら」は言いたくないのです。
彼女のやりたいことの意味
最後の言葉「やりたいことがたくさんあるのに」という言葉が頭を離れません。
彼女のやりたいことの意味が妹さんとの会話でわかりました。
自分がガンになってこれほどつらい思いをするのなら、これからガンのことをもっと勉強して、ガンで苦しむ人の手助けをしていきたいという目標を立てていたそうです。
苦しい時でも人のためにというのが彼女らしいです。
生き方が死に様に表れると実感
私はご遺族の希望で、二日間受付を手伝いました。平日にも関わらず、しかも突然の死であるにも関わらず、数百人もの人が参列してくださいました。
この年代で、これだけ多くの人が参列するというのも珍しいことだと思いました。
これも彼女の人徳です。本当に多くの人たちから愛された友人。私の誇りです。
ただ私は学生時代からの付き合いですから、職場での彼女の様子を知りません。
でも彼女の後輩たちは、彼女を姉のように慕い、「○○姉」と呼んでいたみたいです。
年の開きは親子ほどであっても、職場の後輩たちは彼女を姉のように慕っていたことがよくわかりました。体を震わせて泣き崩れている人もいました。
まるで眠っているような安らかな死に顔を見ると、「よく頑張ったよね、もうゆっくり休んで」という言葉しか出てきません。
他人を否定する人は不幸
彼女がなぜ幸せだったのか、なぜこれほど多くの人に愛されたのかを考えてみました。
それは、彼女は決して人を否定しなかったからだと思いました。
女性はよく、他人の幸せを否定することで、自分の幸せを再確認したがる傾向があります。
年頃になれば彼氏がいる自分といない他人を比較して、「彼氏がいるから私は幸せ」と確認する。
結婚適齢期になれば次々と嫁ぐ友人を見て、「結婚の予定がない私は不幸せ」、子なしなら不幸で子供がいれば勝ち組、賃貸の人を見れば「私は持ち家だから幸せ」と優越感に浸る…。
もう比べだしたらキリがありません。
それらのことを彼女は一切しませんでした。
だから彼女は幸せであり、多くの人から愛されてきたのです。
「心配ね」という言葉
一般的に女性同士の会話によく登場するのは仕事の愚痴と恋愛話と、後は誰かの悪口です。
露骨に悪口を言うのもナンだなと思えば「あの年で独身なんて、将来が心配よね」と、”優越感”を”心配”という言葉に変えて、頼まれてもいない親切の押し売りをします。
実は心配するフリをして噂話をしたいだけなのに…。
彼女は独身で子なしですからイマドキの言葉を借りれば「負け組」になると思います。
でも彼女に向けて、このような悪口を言う人は誰もいませんでした。
彼女のすごいところは、どんな場面でもその噂の対象にならなかったことです。
独身だって子なしだって、いつも輝いていました。
それに、他人の幸せを否定するような同じレベルの人物が周囲には誰もいませんでした。
幸せの形はその人にしか決められません。
でも死に方を見れば、生き様がわかる、そんな通夜と告別式でした。
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