以前から不思議に思っていることがあります。
誰かが誰かを嫌っているとします。仮に嫌われている人がAさん、嫌う人がBさんとしておきましょう。
誰よりもAさんの一挙手一投足に詳しいのはBさんというパターンがとても多いというのが不思議でたまりません。
「Aさんを嫌いなら見なきゃいいだろう」って、Bさんに対して思うのです。
心理学の書籍などでもよく「嫌い」という感情は、「関心が高い証」などと書かれていますが、その理由を明確に示してはいません。
嫌いな人を見れば見るほど負の感情が増幅して、自分がストレスを抱え込むことがわかっているはず。それなのになぜ人は、嫌いな人に高い関心を示すのか?
それが不思議でなりませんした。心理学の知識は全くない私ですが、自分なりにその理由を考えてみました。
嫌いな人に対する関心は「怖い物見たさ」と共通する
嫌いな人に対してなぜ関心が高いのか?
それは「怖いもの見たさ」とよく似ているような気がします。
例えば蛇が怖いと日頃から思っているとします。目の前に突然蛇が現れたとしたら人はどうするでしょう。
最初は反射的に目を背けます。それは自然な行動です。
しかし次の瞬間には、見たくないはずのものを、あえて見てやろうという相反する欲求も湧きあがります。
これが「怖いもの見たさ」です。
で、見たら見たで「ああやっぱりグロテスク!気味悪っ〜」ってなりますよね。
「なら最初から見なきゃいいだそう」と思っても、なぜかつい見てしまう。これが嫌いな人への関心の高さとよく似ているように思うのです。
正当化して自分への安心材料を得るため
わざわざ怖い思いまでしてイヤなものに目を向けるのはきっと、「ああやっぱり」の部分を、自分のこの目で確認して、正当化したいからではないでしょうか。
蛇ならともかく、人を嫌う場合はどこかで罪悪感を抱きがちになるもの。
「ああやっぱり嫌い!」と確認できれば、嫌いな気持ちを正当化できるだけでなく、「自分の判断は正しかった」という安心材料も得られます。
だから罪悪感を打ち消すために「嫌いでいい理由」を一つでも多く入手したいという気持ちが生まれるのです。
「嫌いでいい理由」探しは、同調を得るためでもある
嫌いなのが蛇なら、きっと多くの人はあなたの感情に同調してくれるでしょう。
けれど人間ならそうもいきません。人には相性があり、あの人はこの人を嫌っていたとしても、別の人が同じようにその人のことを嫌いとは限りません。
「え?なんで?私は別に嫌いじゃないわよ」なんて言われると、「なんであんなにイヤな奴なのに、みんなにはそれがわからないの?」という新たなストレスも生まれてきます。
こうなるとお互いの「なんで?」は、疑問形の「なんで?」ではなく、「あなた、ちょっと気にしすぎじゃない?」といった否定の「なんで?」となるか、あるいは「むやみに人を嫌ってはいけません」みたいに聞こえるかもしれません。それにより、ストレスはさらに増幅していきます。
するとどうなるか?
わかってくれる人、同調してくれる人を求めるわけですが、そのためには「あいつはこんなにイヤなヤツなんだ」というネタを用意する必要が出てくるのです。
嫌いな人に関心が向く理由は粗探しのため!
それで始まるのが「粗探し」。
「ひとつでも多くのネタを探してやるぞ!」とばかり、粗探しをするためには、重箱の隅をくまなく突く必要があります。
そうやって嫌いな対象をじっくり観察した結果、相手の中にそのイヤな部分を発見すると、「ほらやっぱり」とばかり、それがブラックな喜びになってくるわけです。だからやめられない。これが私なりに考えた「嫌いな人に目を向けてしまう理由」です。
実は虚しい行為であることにも気づいてない
私にも以前、嫌いで嫌いでたまらないという人がいました。「いました」という過去形ではなく、今でもしぶとく目の前に生息していますが、私の中では過去形にできました。
ただし、今でも嫌いです。ちょっと解りづらくてすみません。どういうことかというと、嫌いだけど、相手への関心がなくなったという感じです。
「ああ、この人はこういう人なんだ」みたいな、突き放した物の見方ができるようになったというか、年とともに俯瞰して物を見られるようになったとでもいうか…。
今となったらそんなこんなも「だからなんだ」って思えるようになったのです。
意識してそうしたわけではないのですが、楽しいことに没頭しているうちに自然と嫌いな人のことを考える時間がなくなったように思います。
そしてあるときふと、今、すごく自分が楽だと気づいてから、こんな風に考えるようになりました。
嫌いな人に関心を寄せるという行為が、いかに愚かで虚しい行為であるかという、こんな簡単なことに気づくまで、ずいぶん長い時間を要したなと…。
その時間の、なんともったいないこと。
人生は長いようで、実は有限。あっという間に朽ち果てちゃう。それならもっと有効に使うべきだったなと…。
無関心になれればしめたもの
よく、「好きの反対は嫌いではなく無関心」なんて言われてますよね。その意味がようやくわかったのです。
嫌いな人を見てイライラしているうちはまだ関心がある証拠。存在してても目に入らない道端の石ころくらいに思えるようになるのが本当の意味での無関心。
以前は「こんな人が目の前にいることが許せない」と思っていたのが「いてもいなくてもどうでもいい人」という意識になり、やがて「私の人生には関係のない人」に変わればしめたもの。いろんなことが客観的に見えるようになります。
相手は所詮道端の石ころなんですから、目の前に転がっていてもどうってことない。いずれはどこかに消えていく。そう考えると、以前のようなイライラがスーっとなくなりました。
だから今、とても楽なんです。なんだかんだと言って、結局は自罰も他罰もない生き方が一番楽チンなんですよね。
最後に
嫌いなら嫌いでもいいと思うのです。それを否定するのはストレスになりますから。
しかしその嫌いな相手に高い関心を寄せるのは自分が消耗するだけです。
貴重な人生、石ころなんぞにつまづいている暇なんてありません。
どうせつまづくなら、磨けば光る石ころを選びましょう。
光る可能性皆無の石ころなら、サッカー選手になったつもりで、遠くの空に蹴っ飛ばしましょう。以上です。
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いつも楽しく拝見してます。わたし、人間関係で色々考えすぎてしまう癖があり、Violentさんのブログをみてニュートラルな気持ちにしてみたり、反省したりとかなり参考にさせていただいてます。
いま、職場でとある人に嫌われてまして、そのかたの行動がブログのまんまだったのでおかしくなりました。彼(中身は女子。でもゲイではない)は私の粗を必死に探しており、それがちらつくとわたしもざわついてしまうのです。私は私のやるべきことをやろうと思いつつも、彼の行動や言動を気にしている自分はまだまだだなぁと思う今日この頃です。
akikoさん、はじめまして。コメントをありがとうございます。
職場の人間関係は、距離が近いだけに厄介な部分がありますよね。考えすぎないようにしても考えてしまうもの。
それに人から嫌われるというのは、自分にとってその相手が石ころ程度の存在であっても決して愉快なものではありません。
ただ思うのですが、その嫌いな感情を職場というオフィシャルな場で出すこと、かつ重箱の隅をつつくようなことをする段階で、中身は女子というその彼の人間性がなんとなく想像がつきます。
小心者でありながら、変なところで勝ち負けにこだわる。世間体が何よりも大事で正しい正しくないといったことに強いこだわりを持つ人という感じの方でしょうか?
きっと他に楽しみがない可哀想な人なんでしょう。
けれどakikoさんは「ブログのまんまなのでおかしくなりました」と、一段上から視る力がありますから、きっと大丈夫。石ころなんぞに負けないで!