開腹手術から3か月が経過。順調に回復し、休部中だったクラブにも復帰。
昨日は3時間、バドミントンでたっぷりいい汗を流してきました。
「ああ、バドミントンができるって幸せ!」
一時は「もう永久にラケットを握れないのでは?」と思っていただけに、昨日は心からそう思いました。
それでも病気に感謝はできない
そんな時にふと、心によぎる言葉。
それは「病気に感謝」といった類の例のアレ。
先日もある人から「あなた、とても貴重な経験をしたわね」なんて言われました。
大病を患った人のブログなどにも「病気になったことで得たものがあるから病気に感謝する」的な言葉が書かれています。
本当にそうでしょうか?
言いたいことの意味はわかりますが、それでも私は「病気になってよかった」なんて絶対に思いません。
病気は、得るものより失うものの方が圧倒的に多いです。
失うどころか、それまで積み上げてきたものが奪い取られていくという感覚を抱きました。
だから病気に感謝なんてできません。
「大切なことに気づけなくてもいいから、病気になんてもう、二度となりたくない!」
手術前も今も、これが偽らざる本音。
物の見方は若干変わった
ただ病気を経験して、物事を俯瞰して見えたりするようにはなりました。
それまではきっと「わかったような気」でいただけの、頭でっかちな部分が多々あったと思います。
でも結局人って、自分が経験したことしか語れない、その経験だけでも語りきれない、測りきれないことの方が圧倒的に多いということだけはわかりました。
ふるいにかけて残ったもの
今こうやって書いていて思ったのですが、この数か月というもの、「私はふるいにかけられたのかな?」という感じです。
ふるいにかければ余計なものはスルスルと下に落ちていきます。
それでもふるいの中に残ったものは確かに存在して、その残ったものがこれから私が大切にしていきたいもの、という意味です。人も、物も、行動も、みんな含めてね。
で、何が残ったかといえば、それは目の前にある日常です。
人はその日を生きることしかできない
病気に限らず自然災害などもそうですが、ある日突然自分の身にふりかかった「何か」を経験すると、その時は自分だけが特別で、世界の終わりのように思ったりします。
けれど人はどんなにジタバタしたところで、淡々と、日々淡々と目の前のことをやっていくことしかできません。
それでもやがて、いつもの日常は戻ってきます。
仮にそれが叶わなくても、また別の日常が開けることだってあります。
その頃には「世界の終わり」に見えたあの地点が「なんだ、たいしたことなかったわ」と、遠い昔のように思えてくるのです。
そう考えると、「病気に感謝なんぞしているヒマがあるなら、今、自分の目の前にある、貴重な日常に感謝しろよ」と思うわけです。
しかもそれは、わざわざ病気なんてしなくても、誰にでもできることです。
やっといつもの日常が戻った
さてここからは昨日のバドミントンの様子です。
5か月も休んでいたから「ゲーム感覚はどうかな?」と思っていたけど、シャトルが飛んでくれば体が自然と反応します。
体で覚えたことは(それがきちんと身についてさえいれば)少々のブランクなんてビクともしないということを実感しました。秋には試合に戻れそうです。
クラブ内の人たちも、最初は「無理しないでね」と言ってたクセに、基礎打ちの段階からもう、ムキになってビシバシ打ってきます。
だからこちらもムキになって必死に打ち返すの連続でした。
「どこが無理するなだよ」と苦笑しましたが、いつもの仲間に囲まれ、いつもの日常が戻ってきたという実感をようやく得ることができました。
ま、なにはともあれ、めでたしめでたしです。
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