Violet@Tokyo

「悪性のナルシシズム」とは〜自分なりの解釈を、中学生にもわかるようにまとめてみた

約 6 分



わかる人にはわかるキーワード・「悪性のナルシシズム」について。わからなければわからないまま、興味があったら読み進めてください。

ただしもっと知りたい方は、この順番で読んでください。
そんなこんなでたまたまこの言葉を知り、さらに詳しく知りたいと思ったので「平気でうそをつく人たち」を読んでみました。

私が興味を持ったのは前のエントリーでも触れているとおり「なぜバレバレの嘘を平気でついてしまうのか。彼ら彼女たちの恥の概念は、どこにあるのか」ということ。

そのあたりの解説が、本書100〜108ページあたりに詳しく書かれていました。

でも英語の文献を日本語化した文章にありがちな(宗教の違いや文化の違いも含む)、かつ心理学書にありがちな読みづらさを感じたので、自分なりの解釈を覚え書きとしてまとめてみます。

虚偽の人々が嘘をつく動機

この本では「平気で嘘をつく人」のことを「邪悪な人」と表現しています。邪悪と聞いてパッと思い浮かべるのは凶悪な犯罪者ですよね。

でも違います。彼女彼らはどこにでもいるふつうの人。ふつうどころか、誰よりも親切で立派な人物という印象を周囲に与えます。

彼ら彼女にとっての一番の関心ゴトは、「自分が他人からどう思われているか」ということ。「人からの評価」がなによりだいじ。そのため、体裁を取り繕うための努力は惜しみません。

完全性という自己像を守ることに執心する彼らは、「道徳的清廉性」という外見を維持しようと絶えず務める。

なので彼らが嘘をつく理由は、自分のいい人像を守るため。

善人でもないのに善人であるかのように見られたいという思いが強いあまり、自己の「イメージ」「外見」「外向け」を守るために平気で嘘をつくのです。それが「虚偽の人々」という意味です。

人はパチンコ台と同じ

虚偽の人々はこんな手口をよく使います。

例えば「愛情深い親」という看板を守りたいなら、いかに自分が子どもたちに尽くしているか・子ども思いであるか・がんばったかを必死でアピールします。そして立派なご高説を並べます。

ではこの場合、子どもに本当に愛情があるかといえば「愛情深い親」として自分を飾るアクセサリーとして必要性と愛着を感じてはいるでしょう。でも愛情はないってことになります。

だって本当に子どもに愛情があるなら、自分がしたいからそうするだけの自然な行為に対して、アピールなんてしませんもの。つまり彼ら彼女にとって、「人は物」という位置づけなのです。

と、ここまで書いて思い出した。私は前にもこの手の邪悪な人について「人は物と同じ」という文章を書きました。その一部をご紹介しますね。

たとえば…。パチンコがおもしろそうと始めます。
おもしろくなって毎日通って夢中になります。そのうちに飽きてきて、玉の出が悪い日が続いたりしているうちに、「なんなのよ、この台!もう二度とやらない!」と台を叩いて去っていきます。
月日が経って、ふと「パチンコやろうかなあ」と思い、またパチンコの台の前に座ります。
このとき、パチンコ台に、「以前は怒って、叩いて去ってしまってごめんなさい」と言うか?
パチンコ台にそんなことはしないでしょう。
だから「なんで謝らなければいけないのっ?意味わかんないっ!」になるのです。
そして、また毎日のようにパチンコをしますが、そのうちボウリングがしたくなり、パチンコ店にはパタッと行かなくなります。
このとき、「ボウリングがしたいので、もうここには来ません。今までありがとうございました」と言うか?
彼らにとっては、やりたいことが見つかったらそっちに行くのが当たり前なだけ。
お世話になったとか、そんなことをパチンコ台に言う方が「意味わかんないっ!」になるのです。
人に酷いことをしておいてケロッとしていられるのは、人はパチンコ台と同じ程度の位置づけに捉えているからです。

情報源: 支配欲が強い人の攻撃をサラリと交わす方法を考えてみた | Violet@Tokyo

この「人に酷いことをしておいてケロッとしていられる」部分が「悪性のナルシシズム」と大きく関係してくるのです。

「悪性のナルシシズム」とは何か?


かんたんに言えば「自分に甘く他人にズルい思考」「自分のことは棚の上に置いて忘れる思考」「自由は叫ぶけど責任からは逃れる思考」でしょうか。

自分に甘く他人にズルい思考

通常、誰かを傷つける行為をすれば、健全な心を持ってる人なら良心の呵責に苛まれて自分を責めるもの。だけど彼ら彼女たちはケロッとしています。

なら良心はないのかといえばそうではない。だから必死にごまかそうとするのです。それが周囲に対する「見え透いた嘘」ということですが、それ以前に誰でもない、自分自身を欺いていることには全く気づいてないのです。

物事を自分に都合よく解釈して、強引にでもそう思い込もうとする。そうやって事実から目を反らし罪の意識から逃れようとする。ありのままの自分に、自分のしたことにちゃんと向き合おうとしない。当然そこには「覚悟」なんて1ミクロンもありません。

自分のことは棚の上に置いて忘れる思考

だからもし仮に、「なんであんなひどいことをしたの?」と責められれば、「自分がひどいことをしたんだから当然だ」とは思わず、責めた相手を敵とみなすのです。反対意見をすればブロックする輩なんて、典型的それですね。

おそらく他者からの賞賛を渇望する彼らにとって、「なりたい自分」と「強欲で卑小な実際の自分」とのギャップを直視するのが恐怖にも近い。それがいちばんの苦痛であり恥。だから無視するという感じでしょうか。

でもその無視された感情が、次々と問題を引き起こしていくのです。焦点バラバラになって、まるで自分がまわりに悩まされて、世界でいちばん辛い思いをしている被害者、という具合に。

周りにいる人たちは「そんな歪んだ思考の穴から、さっさと這い出してくれよ」と思うわけですが、これだけは断言できます。

自由は叫ぶけど責任からは逃れる思考

彼らにとって歪んだ思考の穴がいちばん心地よい環境だから、絶対にそこから這い出してくることはありません。なぜならそこは、責任とは無縁の場所だから。

狭い穴の中で偽りの人生を偽りの人たちに囲まれて、見え透いたお世辞と賞賛だけを心の糧にして生きていくのです。インターネットの「平気でうそをつく人たち」なんて、典型的これですよね。これを同じ穴のムジナと言う。自由と思い込んだ場所が実はいちばん不自由な場所であることも知らずに…。

二次元的な思考しかないから、ある意味しかたないとはいえ、なんともまぁ哀れなこと。以上です。

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