人間観察ダイスキな私の本日のテーマ、それはイエスマン。
職場や地域、趣味のサークルに至るまで、有力者と判断すればいやらしいほどへつらう人ってどこの世界にもいませんか?
なんでもかんでも迎合し、常に顔色を伺い、「フツーここまで言えないだろ」級の、歯の浮くような見え透いたお世辞を言うのは朝飯前。「右を向け」と言われれば、本当はイヤでも「喜んで!」と右を向き、「向いたついでにできることはありませんか?」と、御用聞きまでしてしまう、ご機嫌取りに必死の人。
イエスマンとは上司や先輩など自分にとって影響力のある人や権威のある人に対してご機嫌取りをする人の一種で、目上の人からの頼まれ事や意見に対して「はい」「いいですねえ」といった肯定的な返答しかしない人のことである。イエスマンは主にサラリーマンなど企業人に使われる言葉で、ワンマン経営者やカリスマ性のある社長の周りに多いとされる。こういったイエスマンは扱い易い良い人材に見えるが、明らかに誤った方向に進んでいるときや間違った意見に対しても指摘をせず「はい」と答えるだけなのでよいことばかりではない。実際、社長の取り巻きがイエスマンばかりであったために危機に瀕した会社もある。現代ではイエスマンを自分の意見を持たない者として低く評価する企業や上司も多い。
イエスマン以外の言い方をするなら太鼓持ち、腰ぎんちゃく、ご機嫌取り、草履取り、下僕、奴隷など、どれもこれも、プライドのかけらも感じとれない称号の数々。
私の周囲にもそんな人がいます。先日その人と話す機会がありました。驚くことに、迎合ばかりしてしまう自分を情けないとは思っておらず、「私は社交家だ」と言います。
もう腰だけでなく、歯が全部抜け落ちそうになりました。
その感覚がわからない…。
そこで今回は、イエスマンが社交家どころか、いかに損をしているのか、その理由を3点に絞ってお伝えします。
理由1.人選ミスに気づいてない
イエスマンにとっての「有力者」が本当に有能かといえば、必死に有能ぶってはいるけど実は無能です。これは過去の歴史が物語っています。いや、それは今も同じ。ミサイルボンボン打ち上げている彼の国なんて、まさにその典型。
独裁者の末路…。今さら言うまでもありませんよね。
国レベルの問題だけでなく、もっと小さなコミニュティでもそれは全く同じ理屈。だって、歴史も社会も人が作っているのですから。
物事には需要と供給があって、迎合する人を求める人がいれば、求めない人もいる。
本当に有能な人は側近をしっかり選びます。間違ってもイエスマンなんて選びません。
それに対し、無能な人ほどイエスマンを求めます。
必死にご機嫌取りをして側近に昇格したとしても、その昇格は喜ばしいことでなく、むしろマイナス。人を見る目のなさを、自ら露呈しているようなもの。
何が不幸って、仕える人が無能であることにも気づいてないばかりか、「私は社交家」と勘違いをしていること。これを喜劇と言わずしてなんと言う?
理由2.実は軽く扱われていることにも気づいてない
イエスマンというくらいだから、どんな無理難題でも決して「No」とは言わないし 、逆らうことだってするわけがない。そうやって必死に人畜無害の「いい人像」を作り上げている限り、自分から敵を作ることはまずないでしょう。そんな度胸もないし。
けれどそれで誰からも信頼されるかといえば、答えはNo。いい顔して安売りするから軽んじられてしまうのです。せいぜい使い捨ての便利な道具として扱われるのが関の山。
「この程度ならアイツにでもできるだろう」程度の、どうでもいいような仕事、特に、人が嫌がる面倒な仕事ばかり回ってきます。
頼む側は「どうせイエスマンだから断らないだろう」という前提で、面倒な仕事を押し付けるのです。それだけバカにされている証拠。
傍から見れば「うまく利用されている」と感じる場面は多々ありますが、本人は全く感じていません。むしろ頼られたとばかり、尽くすことに喜びを感じているようです。これをドMと言わずしてなんと言う?
理由3.本物の人間関係を築けないことにも気づいていない
イエスマンに興味を持ったきっかけ
私が迎合する生き方を選ぶイエスマンの存在に気づいたのは、結婚して今の地に来てから。それまでの仲間の間ではそんな関係は皆無だったので、初めて”その人”を見た時、「こんな人種がいるんだ!」という、ある種のカルチャーショックを覚えました。
いや、「大人の世界には一定数、そういう人種はいるものだ」程度の知識はありました。でもそれは仕事とか、なにかしら利益が絡んだ場合のみで、こんなプライベートなご近所で、まさかイエスマンにお目にかかれるとは…。
私には驚きでした。同い年だっただけに理解できませんでした。
自己主張を悪と捉える感覚
例えば小学生でもわかるような「1+1はいくつ?」程度の質問でも「みんなに聞いてから」と、決して自分で答えようとしません。で、私が受けた教育では答えは2なのに、たまに教育方針が違うのか、3と答える人がいます。すると「そうですよね〜、やっぱり3ですよね〜」とヘコヘコしている。
たまに意見らしきことを言う時は、ニュース番組のコメンテーターが言ったような内容の受け売り。
あまりにそらぞらしく、自己主張を恐れているようにも見えたので、ある日私は「なぜあなたは、自分の意見をちゃんと言わないの?」と質問しました。
すると「揉めたくないから」という答えが返ってきました。
「意見を言うこと=揉める」と捉える意識。ますます理解不能。
いいか?よく聞け。 1+1は2だぞ!
それをきちんと言っても揉めないぞ!
まるで未知との遭遇
「どんな生き方をしたらこうなるの?」に始まり、「これでこの人は満足しているの?」「それでストレスはたまらないの?」などなど、未知との遭遇さながら、異種の生物に対する興味が次々と沸いてきました。
疑問の数々
Q: 自己主張をしない生き方なんてありえるの?
A: 私には無理。だから今、こうしてブログを書いています。
Q: もし私が自己主張しないでいれば、精神衛生上どうだろう?
A: スレトスだらけだろうねぇ…。第一、本当の人間関係なんて築けないもの。
人と人は合わせ鏡
こんな自問自答をしながらその人を見ているわけです。
自分なりに行き着いた答えは、いかにも日本的な「自己主張=協調性のない身勝手な人間」だと思いこんでいるのか、過去に拒否されて傷ついたトラウマでもあるのか、おそらくそのあたりかと。どちらにせよ、嫌われることを恐れて本心を明かさないだけ。
「人と人は合わせ鏡」とはよく言ったもので、相手が表面ツラの会話しかしなければ、受け答えだって表面ツラの返答しかできません。結果、いつまでたっても対等な人間関係なんて築けません。実はそれさえ恐れているのかもしれませんけどね。
最後に
だとしたら不自由な生き方です。
自分を押し殺してイエスマンに成り下がったとしても、100%、誰からも好かれる人なんていないし、自分の考え方や意見を相手に明かさなければ、自分がどんな人間かを相手に伝えらない。
嫌われることを恐れて自分の考えを人に明かさずに迎合する生き方を選んでいるなら、いちばん大切なことを忘れている。人が最も苦手とするのは「何を考えているのかよくわからない人」、という事実を。
これを「骨折り損のくたびれ儲け」と言わずしてなんと言う?
以上がイエスマンが損をする3つの理由です。それでも本人はそれが処世術と思い込んで、そうしている限りは自分が安全と思い込んでいるわけですから、これをおめでたいと言わずしてなんと言う?
と、キリがないので今回はこのへんで。
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あー、世の中violetさんみたいな考え方が多ければ私も生きやすいのに。
いつも代弁ありがとうございます。
そして私が取り上げてほしかったトピックを選定いただき、重ねてお礼申し上げます。
ここ最近自己主張したり正論はきまくりで敵を作りやすく悩んでおりましたので、このブログで少し元気でました。わかる人にはわかってもらえる、じゃ組織だと難しいのかなぁ。自分の軸が、信念がぶれそうでした。(。>д<)
引き続き、遠くからわたしをはげましてくださいませ(*^^*)
いや、組織でもどこでも「わかる人にはわかってくれる」でいいと思いますよ。嫌われない人はぜったいにいません。好かれたくて誰にでもいい顔をする人を大嫌いだと思う私のような人もいますから(*^^*)
イエスマンて、いい人を装いつつ、実は腹黒く信用ならない。影でバカにされていることも自覚してない。おバカな上司を増長させるのもイエスマンに責任アリって思っています。
遠くからエールを送ります。