ふだん何気なく使っている言葉「仲間」について、思うことを書いていきます。
「仲間は必要か」と問われればYESと答えます。でも何かにつけて「私たち、仲間だよね」と、やたらに仲間意識を強調されると、むず痒くなる私がいます。ごく控えめに言ってウザい。
その理由はなんだろうと考えてみました。
仲間意識はいいことばかりではない
子供の頃から「仲間を大切に」という教えを受けて育ってきたせいか、仲間を増やすことが人生を充実させると信じ、仲間づくりに積極的に取り組む人は多いです。
しかしその一方で、仲間意識があるから仲間はずれが生まれ、仲間意識があるから作る必要のない敵が生まれてしまう弊害もあるのです。つい先日も「仲間だから」という理由で、つく必要のない嘘をついて仲間をかばっている人を見かけました。
そんなとき、よく思います。「仲間だから」という理由でおかしいものを「おかしい」と言えない関係でも、彼ら彼女たちにとっては「すばらしい仲間なのか?」と。
「仲間を大切に」というその人にとっての善行は、嘘をついたり仲間はずれを作ったり敵を作るような、世間一般で言うところの悪行にも勝るのか?免罪符になるのか?と、釈然としない違和感を覚えるのです。
つくづく、「仲間」というのは状況次第で都合の良いキーワードですわね。
枠からはみ出す仲間意識が面倒な人間関係を生む
「仲間」はあらゆる場所で作れます。その枠内に収まった関係ならトラブルは少ないのですが、本来の目的からはみ出すと、面倒な人間関係のトラブルが生まれやすくなります。
例えば「趣味仲間」。同じ趣味を持つもの同士が決まった時間・決まった場所に出かけて、その趣味をやるためだけの目的で集まるなら、それは単純な趣味仲間。
目的が趣味という枠内に収まっているので、その時間内、和気あいあいと趣味を楽しみ、終わればさっさと帰ることができます。
でもそれ以上に親しくなろうとして無駄な仲間意識が芽生えると、趣味の時間が終わっても長々とおしゃべりが続き、やがてお茶会やランチ会などのお付き合いが始まり、趣味の枠からはみ出して、交流そのものが目的になります。
それを望んでいる人にはいいのですが、その場限定の割り切った付き合いにとどめたい人には窮屈です。
すると付き合いがいい人と悪い人とにわかれます。
やがて派閥のようなものができあがり、いない人の悪口大会が始まり、趣味以外の過干渉から人格否定に発展し、共通の敵を作ることで仲間意識を強めようとする動きが生まれ…。
もうこうなると、純粋にその趣味を楽む目的だったはずの「趣味仲間」の枠を大幅に超えて「派閥作り」が目的になります。
馴れ合ってないでその枠内限定の付き合いに留めていれば、面倒なトラブルは少ないのに、こればかりは人それぞれ。どんな仲間を求めるかは各自の価値観によって違いがあります。
遠巻きに見ていると、似た者同士でくっついてます。特に自分の主体性に自信のないタイプほど、誰かとつるむことで安心を得ようとしています。オマエは中学生か?
強すぎる仲間意識を求める人
私個人は「来るもの拒まず・さる者追わず」という、その場限定のあっさりした付き合いが気楽でいいと思うタイプです。
でも人によってはそれ以上の、もっと強いつながりを求めてべったりとした関係を望む場合があります。そうすることで自分の場所や立場を確保できたと安心するのでしょう。
しかしそれはあくまでも錯覚。
なぜなら肝心の、信頼関係を築けてない事実には目を背けているからです。
そのギャップは行動に表れます。何をするにも一緒のお友達地獄がスタートするのは常に行動を共にしなければ不安でたまらない心理がそうさせるのです。それが見せかけの脆い関係であることにも気づいていません。
ここまで書いて、私の違和感の正体はこれかもしれないと、今、思いました。
仲間意識は抱くもの
かつて「私達、仲間でしょ?」という言葉を聞くたびに、「仲間って、いちいち確認しあわなきゃいけないもの?」と、得体の知れない気持ち悪さを感じてました。
仲間意識は自分が自然と抱くものであって、相手に確認したり、押しつけたりするものではありません。でも彼ら・彼女たちは不安だからいちいち確認するのです。
だとしたら、これこそ無駄な仲間意識だなと。私は、自分に合った適度な距離感を保てる仲間は必要だけど、依存しあうだけの仲間は不要だなと。
私は、仲間ごっこをするための見せかけの仲間はいりません。不要です。以上です。
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