お盆時期、いや正月もそうだけど、「実家への帰省がうんざり」という声をあちこちで聞くので「親孝行」について書いてみます。
私も正直、「親孝行」と聞くとなんだかむず痒くなります。
例えば「私の母は自宅で亡くなり、日々の世話は兄がしていた」と人に話すと、決まってこう言われます。
「親孝行なお兄さんね」
それを兄に伝えると、「そう言われたくてしたのではない」と、よく私に言います。
「母が建てた家に住まわせてもらい、母が築いた事業をさせてもらっているから、家族として当たり前のことをしているだけ」
思いと行為はイコールではない
何が言いたいのかというと、「親の面倒を見るから親孝行」とか、「親と同居するから親孝行」という、世間でよく言われている親孝行の雛形に、自分がしたことをまんま当てはめられることに対するささやかな抵抗が、兄の中にはあるみたいです。
「思いがなくても、ただ機械的に世間の雛形とやらに当てはまる行為をすれば、それで『親孝行』ってことなのか?」というモヤモヤなのでしょう。
不満の根源は「べき思考」
それは私も全く同じ。我が家の前は遊歩道で、庭先に見える光景は近所の人たちがたむろっている憩いの場。午前中は老人たちが集まり、おしゃべりに花を咲かせています。
「実の娘さんと暮らせるなんて、アナタ、幸せね」と問いかける人に、憮然とした表情を浮かべる人。
「体の調子が悪いから、息子の家に世話になっている」と言う人に、「親孝行な息子さんね」と声をかけると微妙な表情を浮かべ、「息子はともかく嫁は…」と愚痴をこぼす人。我が家の庭先は、まさに人生模様の縮図そのもの。
それはきっと、各自の置かれた現状が、各自が理想とする「親孝行」の図式に合致してないから不満ばかりが募っているのだと思います。
形より思いがたいせつ
「形から入る」という言葉がありますが、入ったはいいけど、形を維持することだけに心血を注ぎ、いつまでも形のままで終わってしまうのが最近の風潮。
知識はあっても心がないという感じでしょうか。同じ行為をするのでも、形を維持するために「しなきゃ」という税金を払うような義務感でするのと、思いを実現するために「自分がしたいからする」のとでは雲泥の差があります。
冒頭の兄の場合はそれができる環境にあり、そうするのが当然と思ったからそうしたまでですが、施設に預けるなどしてそれができなければ、イコール親不孝ってことなのか?ってことになります。
場合によっては施設に入り、介護のプロにお願いした方が幸せなケースはゴマンとあるのに、そこは置き去りにされている感があります。
世間体に縛られるな!
それは介護だけに限りません。「立派な会社に入れ」、「早く結婚しろ」、「子供はまだ?」、「盆暮れには必ず帰省しろ」など、子を縛る「親孝行」の呪縛はゴマンとあります。
呪縛の正体は「人様から”親孝行”と言われる人に成長してくれ」という、世間体を気にしたエゴです。
世継ぎを作り、イベントごとに家族が揃うことが親孝行だなんて、「どこぞのやんごとなきお方なのでしょう?」と、一般平民の代表として聞きたくなりますよ。
一般平民の場合、親がいなくなっても生きていける才覚さえ得とくしてさえくれれば、それだけで十分親孝行だと思いません?
その上で、つかず離れず適度な距離を保って互いを見守る関係を保つ。何かの行為をするのが親孝行ではなく、思い合う心にフォーカスする。それが互いにとっての幸せになるのです。以上です。
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