まさにド正論というツイートが流れてきました。
嫌な思いをした人に対して
「許してあげなさいよ」
「忘れた方がいいわよ」
と許す努力を強要し
許せないと、心が狭い悪者のような扱いを受けることがあるが
許せないようなことをした人が1番悪い— えに (@enicat10) 2018年3月1日
誰かにひどいことをされて怒っていると、怒っている方が悪いみたいなことを言われたことはありませんか?
被害を受けた当事者でもないのに「”そんなこと”でいつまでも怒っているあなたが悪い」と諭す偽善者って、どこにでもいますよね。いちばん苦手とするタイプです。
許す・許さないは他人が口出しすることではない
上のツイートにもあるように、許す・許さないは被害を受けた側の問題。第三者が口を挟む筋合いではありません。それこそ見当違いのよけいなひと言なのに、本人にはそれがわからない。わからないどころか「私は正しいことを言ってます」みたいな気になってるから始末が悪いのです。
「許すことが美徳」のベース
こういった「許すことが美徳である」という考え方は、何かの宗教かぶれが言いそうなこと。でも「宗教」は、人の群れを統率するための手段でしかありません。「教え」によって、人の心をがんじがらめにしてしまうこともあるのです。
学校教育も似たようなもの。ケンカした同士をたしなめる「みんなで仲良くしなさい」なんていう言葉も、その場を統率するための手法でしかありません。ベースにあるのは忠臣蔵の喧嘩両成敗と、なんちゃって宗教の教えをもっともらしく言ってるだけ。良い・悪いとか、当事者の気持ちは全く無視です。要は面倒なことが大キライなだけ。手っ取り早く、その場が丸く収まればそれでいいのです。
許す努力なんていらない
では人にそうやって諭すくらいなら、自分はそれだけ寛大なのかといえば、そうではありません。こういうのに限って”そんなこと”を、いつまでも根に持って、人一倍ギャーギャー騒いでます。
このように、対岸から見た時に”そんなこと”と思っても、当事者にとっては”そんなこと”ですまないから「どうしても許せない」となるのです。
つまり「許せない」というのは、その人のこだわりの部分で、関係者以外立ち入り禁止区域です。そこに他人がズカズカ土足で入り込んでくることの方がよっぽど「許せない」ことって思いません?
だからもし、「いつまでも怒っている私が悪いのかしら?」と自分を責めているとするなら、そんな思いは、今すぐに捨ててください。
許すってどういうこと?
少なくとも、許すことに努力を要するうちは、全く許してない・忘れてないということです。
それに努力さえすれば、許せるってものでもありません。
許すというのは、「自分では許したつもりはないけど、時が過ぎてみたら自分にとってどうでもいいことになっている状態」に、自分が気づいた時に実感するもの。それが本当の許しだと思うのです。
つまり許すというのは「行為」ではなく、いつのまにかそうなっている「心の状態」を指すのです。
他人にはわからない
私も過去、誰かのことで怒っていると、そんなふうに言われたことがあります。
その言葉を吐くのはたいてい自分が正しいと信じて疑わない偽善者でした。でもその偽善者のおかげで、「どうしても許せない」という気持ちを、他人に打ち明けても100%理解はされない。仮にされたとしても、当事者とはかなりの温度差があることに気付きました。わかってもらえたと思っても、それはただの同情でしかないことの方が多いです。
だからそれ以来、自分の許せない気持ちを周囲に明かすことは、ほぼなくなりました。自分にとって「絶対に許せないこと」をされたら、誰かに何かを言うことなく、ただ静かに関係を断ち切るだけにしています。
もしかしたらそれがいちばんストレスが少ない方法かもしれませんよ。だって、わかったつもりの偽善者にまでイラつくことはなくなりますからね。以上です。
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