地域でも学校でも職場でも、浮いている人や嫌われている人は、一定数はいるものです。
仮に嫌われてる人をAさんとしておきましょう。そのAさんをネタにして、悪口大会で盛り上がってる場面に遭遇すると、いつも割り切れないモヤモヤを抱えてしまうのです。
Aさんのことをよく知りもしない第三者が、「みんなが嫌っているから」という理由だけでAさんの悪口大会に参加し、そこで仕入れたネタだけを信じてしまうのを見ると、「実にくだらないなぁ」と。
「みんなが嫌っているから」という色眼鏡
信じるだけならまだいいけど、Aさんから被害を受けたわけでもないのに、露骨に嫌悪の態度を表す場面に出くわすと、「この人は、人の好き嫌いすら右へ倣えなのかしら?」と、不思議な気持ちになります。
これも一種の同調圧力でしょうか?
なんで最初から色眼鏡をかける必要があるの?
実に不思議…と思っていたら15歳のはるかぜちゃんのツイートを読んで深く納得しました。
便乗していじめをする人は、後付けで理由を探す
いじめられる側に原因があるか聞かれたら
完璧な人間はいないので
ある、と答えざるをえません
けれどそれは、いじめる側が原因を相手の中に「見つけた」だけのことだと思います
まずいじめる側に、誰かをいじめたいという目的(結果)があって
その目的に向かって、原因を探し出されたのです— はるかぜちゃん (@harukazechan) 2016年10月18日
人の能は、目的を定めれば後の行動はおのずと決まってきます。「いじめたい」という目的が先にあるからいじめを正当化する理由(いじめられる原因)を必要とするのです。その必需品が色眼鏡。
何の先入観も持たなければスルーできる言動でも、色眼鏡をかけて見れば、同じ内容でも景色が違って見えます。
特定の誰かをいじめたい・排除したい・蹴落としたい…。そんな思いでウズウズしている人は、叩くためのネタを探し出す達人です。いくつもの色眼鏡を用意しています。
先日、ある人と喋っていたとき、そのAさんの話題になりました。
私が「みんながAさんを嫌っていることは知ってます。でも私は彼女から嫌な思いをさせられたことはないから、特に嫌いとは感じてません。これからも普通につきあっていきます」と言うと、不満を通り越して非難するような言い方をされました。
「Aさんにはみんなから嫌われる理由があるのよ。あなたはそれをまだ知らないだけ!」
「ではあなたはこれまでに、直接Aさんから被害を受けたの?」と聞くと、「それはない」とのこと。
でも、「親しくすると周りから同じように見られるのがイヤ」と言う。
このやり取りでモヤモヤがMAX。
「ガキみたいなこと言うなーー」
正直、ドン引きしました。人からどう見られるかを気にして計算づくで人と関わるなんて、私はそのほうがはるかに怖いです。控えめに言って、実におろか。
自分の人生なら自分が付き合う人くらい、他人の色眼鏡で判断するのではなく、自分の両目をガッと見開いて選べばいい。それが大人です。
便乗して人を叩くのは日常茶飯事
しかしこういった現象は世間一般ではとても多く、芸能人の不祥事や政治家の失言や企業の失態など、あらゆる場面で見られます。
私にも嫌いな人はいます。でも「みんなが嫌っているから」という理由ではなく、嫌うだけの理由が私の中にちゃんとあるから嫌いなのです。
私は、人を嫌う気持ちを正当化するつもりはありません。嫌がらせをされたらその人を嫌うのは自然のこと。好き・嫌いの“気持ちの部分”はその人の自由です。でもそこには自分の責任と判断が必要です。
立派な人になりたがる人ほど便乗して人を叩く
けれど、便乗して叩く人はそうではありません。
「嫌われている人」なら自分に関係がなくても「いじめていい人」だと思っています。そこには肝心の責任と判断は皆無です。
「みんなが」という絶対的多数が”正義”であると勘違いして、この時とばかりドヤ顔で、ご立派な正論をぶちかます。そうすれば自分が「立派な意見を持つ人間」に見られると信じているのでしょう。
これこそがイジメの構図です。子供の世界からイジメがなくならない理由の一つは、大人がいつまでもこんなことばかりしているからです。
最後に
「みんなが」という多数意見に便乗して、叩きやすい人を叩くのは「大人として恥」くらいの認識が定着すればいいと思う今日この頃。以上です。
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