このところ、立て続けに有名人ががんを公表し、いろいろの立場の人が励ましの言葉を口にしています。でもそれは誰のため?と思うことが多々あるので、思うところを書いていきます。
“患者からの言葉に傷つくこともありました。病棟は高齢のがん患者さんが多く、「若いのにがんなんてかわいそう」(中略)「人生が短くても充実して生きることは出来るのだから、あなたも頑張りなさい」など”
ぼくはがん患者マウンティングとよんでます。 https://t.co/i1fumkxUSw
— 幡野 広志 (@hatanohiroshi) 2019年2月19日
この気持ち、この思い、私には痛いほどよくわかります。
私は結果的にはがんではなかったけれど、「がんかもしれない」という時期が約2ヶ月ほど続きました。腫瘍ができた場所が体の奥の方だったので、事前に組織を取って検査することができず、手術で腫瘍を取り出してみないと良性か悪性かがわからなかったのです。その間は蛇の生殺しと一緒でした。
言葉には敏感になる
その間本当に、いろいろなことを考えました。
「考えてもしかたない」とわかってるけど、やっぱり考えてしまう。
そんな私に対し、「考えても仕方ないんだから」と言ってくる人がいました。「くよくよするなよ」と、相手は励ます気持ちで軽く言ってるのだと頭では理解はできます。
でも心は微妙。
「考えても仕方ないんだから」という言葉は、考えて考えて考え尽くして考える気力もなくなるほど考えて、もう疲弊しきってしまったことがある人だけが言える言葉です。
考えてしまうときは考えてしまうものです。でもそれは至極自然なことで、考えてしまう自分を責める必要もないのだと、そんな些細な言葉にさえ敏感になっていたあの頃。
先の記事にあった”「こちら側」と「あちら側」の境界”を感じたものです。
あれから2年。(あまり思い出したくないけど)今思い返すと、当時はきっと、心がすごーく弱っていたのだと実感します。私たちにできるのは「騒がずに信じて待つ」こと
「私でさえそうだったくらいだから、わずか18才で白血病を宣告された池江さんは、舌癌でステージ4と宣告された堀ちえみさんは、今頃どんな思いでいるのだろう?」
第一報に触れたとき、まず頭をよぎったのはそれ。
表向きはとても健気で前向きな言葉でした。でもそれを発するに至るまでに、どれほどの葛藤があったのかを想像すると、胸が痛みます。
なのにその言葉だけで「本人はとても前向き、だからみんなで応援しよう」という方向に走り、本人が「静かに見守ってほしい」と言ってるにも関わらず、病状やら治療法を細かく解説する番組あり。
無神経な言葉を投げかける政治家あり。
その失言をネタにして、自身のフィールドに落とし込もう──でもその目的は、自分のポジション取りミエミエの人あり。
この人たちは「もしも自分の身に起こったことなら」と、ほんの少しでも思えないのでしょうか。本人だけでなく、その言葉を、そのつぶやきを、この人たちの家族がそれを見聞きしたらどう感じるかを考えないのでしょうか。
騒ぐことが、決まりきった偽善の美辞麗句を並べることだけが、その人を思うことではないのです。元気になって帰ってくるのを信じて待つことしか私たちにはできないのです。
そんなかんたんなことなのに、わからない人が多すぎて…。
「日常」を突然奪われたとき、人はやっとわかるのかな。なーーんともない1日をなーーんともなく過ごすことが、実はどれほど大変でどれほどしあわせかって。
だけど本当は、いちばんしあわせなのは、それに気づくこともなく暮らしていくことなんだけどね。
だからもし、あなたの周囲にいる重い病気にかかった人に言葉をかけるなら、私だったら病気のことには何も触れず、「なーーんともない1日をなーーんともなく過ごすこと」を連想させるような言葉を選ぶな、きっと。──実際私の心に響いたのも、そんな言葉だったし。
病気の人に言葉をかけるなら?
もし病気の人にかける言葉を探しているなら、これだけはわかってほしい。
“心配している私”をアピールしないで。自分の”いい人像”を、病気と闘っている人に押し付けないで。
主役はあなたじゃないの。あなたはあくまでも伴走者。主役を生かすための黒子でしかないのだから。
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