否定的、消極的なネガティブ思考は悪とされ、「ポジティブ思考こそ正義」みたいな風潮がある昨今、「それって体に悪くありませんか?どこかで無理していませんか?」と思う今日このごろ。
「どんな時でも頑張る私!」「悲しい時ほど笑ってごらん」みたいなフレーズを聞くと、「ウソ言ってんじゃねー、悲しい時は悲しい、怒る時は怒るでいいじゃないか!」と、真夏なのに薄ら寒く感じるのは私だけでしょうか。
ネガティブは立ち直りに必要なステップ
血肉の通った人間なら、喜怒哀楽の感情があって当たり前。泣きたい時は泣けばいい。そういう感情にどっぷり向き合うのも、「立ち直り」に必要な、たいせつなステップです。
なのにネガティブな感情を、自己啓発本の影響かなにかは知らないけど、頭だけで”悪”と決めつけ、自分の本当の感情――心にくすぶる”怒”と”哀”の部分――を封印したらどうなるでしょう?
無視された感情は行き場をなくし、最悪、うつ病になるでしょうねぇ。
本当の心の強さとは
なにがあったも弱音も吐かず、愚痴もこぼさず、「大丈夫?」と聞かれたら、「はい、大丈夫です!頑張ります!」とニコニコ笑顔を絶やさず、人前では常に明るく振る舞う人。
世間ではそういう人を「ポジティブで、心が強い人」と認識しています。
やせ我慢は強さではない
本人が「そうしよう」と意識せず、ごく自然にやっているなら確かにそうかもしれません。
でも非日常の出来事――突発的な事故・災害・親しい人の死など――絶対に「大丈夫じゃないだろう」みたいな時にまで、「大丈夫です!頑張ります!」みたいな振るまいは、真の強さではありません。ただの強がり・やせ我慢。
なぜそうしてしまうのか?
例えば愛する人を亡くした人に対する「泣いてばかりいると、故人が浮かばれない」、「亡くなった人の分まで強く生きなきゃ」的な、心無い言葉も原因の一つだと私は考えています。
言う側は励ましているのかもしれないけど、これは無神経です。当事者本人が思うことであって、他人が言う言葉ではありません。
それにより、なかなか立ち直れず、嘆き苦しむことがまるで罪悪であるかのように思えてしまうから、泣きたい時に泣けない人になってしまうのです。
いい子ちゃんにならなくていい
光と影は表裏一体。いい子ちゃんになんてならなくていい。立派な人を目指す必要もない。悲しい時は悲しいまま、ムッキーとなったらムッキーでよろしい。
マイナスの感情も弱さも暗さも、全て自分の一部だと認め、自分にそれを許した方が、はるかに楽に生きられると思うのですが。
弱さと共存する
ちなみに私、そんな時はEvernoteに思いのタケを綴ります。書きたいだけ書いて後は見ない。昨日そんな文章をたまたま見つけたので久しぶりに読んでみましたが、怒りに任せて書いた文章だから、実にドロドロとしてました(笑)
「こんなくっだらないことで悩んでいたのねぇ…」
今こう思うからこそ、それを書いた時に戻って当時の自分を殴りに行きたい気分。
でも、それだって確実に私の一部です。同時にほんのわずかながら、自分の成長を感じました。
影の部分を封印することだけが強さではない。それを無視せず、場所を選んで開放し、自分の弱さと共に生きていくことの方が強く、そして人として尊い生き方ではないでしょうか。以上です。
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