60年経った今も被害は続く「母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~」を見て

ETV特集「母と子 あの日から-森永ヒ素ミルク中毒事件60年」.NHK.森永ヒ素ミルク事件

先月23日、NHKで森永ヒ素ミルク事件を扱ったドキュメンタリー番組が放送されました。

60年経っても今も自分を責め続けている年老いた親の姿を、番組では「お涙ちょうだい」的な表現ではなく、淡々と放映していました。この番組を見た感想をご紹介します。

ETV特集「母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~」

母親が赤ちゃんに与える粉ミルクに猛毒・ヒ素が混入した「森永ヒ素ミルク中毒事件」。少なくとも130人の乳幼児が死亡、全国で1万3000人以上の被害者を出した。被害者の中には、脳性まひなど重い障害が残った人も。しかし後遺症の存在は、事件から10年以上認められなかった。国、森永乳業、被害者団体が昭和48年に「恒久救済」に合意した後も、母親たちの自責の念は消えていない。

情報源: NHKドキュメンタリー – ETV特集「母と子 あの日から~森永ヒ素ミルク中毒事件60年~」

感想

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1955年、西日本を中心に起きたこの事件のことは、昔母の口から聞いた覚えがあります。

この当時は「赤ちゃんを健康に育てたければ、多くの栄養素を含んだ粉ミルクが優れている」と、産婦人科の医師も粉ミルクを推奨したと言います。

それを信じて起きた悲劇。中には母乳が出るのに、わざわざこのミルクを与えた親もいたとか。しかもその悲劇は60年経った今も続いている…。

赤ちゃんのうちに亡くなられた方もいれば、重い障害を抱えながら社会の片隅でひっそりと生きる人々。

それを抱える家族もまた高齢となり、先の見えない不安と戦ってらっしゃる。

頑として認めない森永

この事件が発覚した当時、森永はミルクと後遺症との因果関係を頑なに認めようとしなかったそうです。人命よりも利益優先。そして隠蔽。大企業の体質は今も昔も変わりませんよね。それが腹立たしい限りです。

母親だからこそわかる、昨日までとまるで違うわが子の状態。周囲にそれを訴えたくても、厚生省も森永寄りとなれば訴える術などありません。計り知れない葛藤を抱えたことと思います。

見ていてふと感じたのですが、この時因果関係を認めなかったということは、徳島工場で製造している人たちは、自分たちが作ったものを安全なものだと信じて作ったのでしょうか?

絶対の自信を持ってわが子にこのミルクを飲ませたのでしょうか?

親戚や友人たちにも勧めたのでしょうか?

この当時、徳島工場で製造にあたった人たちの声も併せて知りたいと思いました。

周囲の偏見に苦しむ被害者たち

当時のドロドロとした家制度も被害者を苦しめます。姑が嫁に気を使う今の時代とは違い、当時の嫁は奴隷や召使のようなものですからね。地方都市となれば余計にその傾向が強くなります。

先天性として片付けられたことで、どれほど当時の老害たちから心無い言葉を投げつけられ、責め立てられたことでしょう。

「……先生。あの子は生涯、『おかあ』と『まんま』と『あほう』 の三つの言葉しか言えませんでした。

『おかあ』と『まんま』は、知能の遅れているあの子がなんとか生きていくためにと思って、私が必死で教え込みました。

けれど、『あほう』という言葉は、私は一度も口にしたことがない。

世間の人たちがあの子にそんなひどい言葉を何度も何度も投げつけたんです。

私は、 そういう世間が憎い。憎くて憎くて、たまりません……」

母親はぶるぶると震える手をゆっくり持ち上げて、顔を覆った。

情報源:森永砒素ミルク中毒事件「十四年目の訪問」

仮にもし、すぐに森永が非を認めたとしても、被害に遭った人たちの体が元に戻ることはありません。

しかし、少なくとも地域や親族からのバッシングだけは避けられたかもしれません。

それでも「毒入りミルクを愛するわが子に飲ませた」という親としての自責の念はなくなりません。

訴えたくてもどこに訴えたらいいのかすらわからなかったことでしょう。結局、口を閉ざすしかなす術がなかったと言います。それがもどかしい限りです。

障がい者に対する偏見…。

先月の放送に対して今頃この記事をアップすることになるのも実はこれがネックとなり、今まで書けずにいました。

先月26日未明に起きた例の相模原の事件です。

わたくしごとになりますが、親戚が相模原で障がい者を受け入れる施設を経営していることで、この時期、かなり動揺しました。事件の舞台となったあの施設とも交流があります。それはまたいずれ、別の機会にアップしたいと思っています。

二人の母親の苦悩

番組の中で紹介された石川宗二さん(被害者の男性)はこう言います。

「僕には(ミルクを飲む前の)赤ちゃんの頃の写真がないんです」

後に納戸から見つかりますが、その写真は破かれていました。

丸々とした可愛らしいわが子の写真を破ってしまうほどの絶望。なんとも切ない気持ちになりました。

それでも石川宗二さんの母親は必死にわが子を育てます。

「障害を持っていても心まで障害を持ったらいかん」

人に助けられて生きていくのだから、挨拶とお礼をきちんと言えるように、しつけには厳しかったそうです。自分がいなくなった後のことを案じてのことです。ステキなお母さんです。

番組で紹介されたもう一人の母親・鈴木雪枝さんのエピソードもまた胸を締めつけられます。絶望のあまり、幼いわが子を道連れにしようと線路に向かって歩いていったそうです。郁己さんが嫌がったことではっと我に返り「今の私がある」と笑っておられました。

後遺症の発覚

事件から14年後。養護教諭や保健師たちによる調査を発端に、やっとミルクと後遺症との因果関係にスポットが当たります。

この事件を調べた疫学教授がこう言います。

「被害は二つあります。森永のミルクを飲まされた赤ちゃんと、自分の子供に何も知らずに毒を飲ませる結果になった親たち」

森永がやっと「恒久救済」に合意したのは昭和48年のこと。しかし親の苦しみは終わっていません。その自責の念は、生きている限り続きます。

「子宝」という言葉があるくらい、子供が産まれることは幸せの象徴。

そんな矢先にわが子の健康を願い、良かれと思ってしたことが死ぬまで続く苦しみのスタートになるとは…。

最後に

遠い記憶をたどってみると”明治”と書かれたミルク缶を見た覚えがあります。物をたいせつにする当時は、空き缶でも捨てずに取っておくのが一般的。我が家も例外ではなく、その空き缶を小物入れとして使用していました。

母は母乳が出ない人ではありませんが、あれが我が家にあったということは、母もまた粉ミルクの方が栄養価が高いと信じていたのかもしれません。

もしそれが明治ではなく森永だったら…。

昭和30年ではなく、もう少し後に作られたミルクだったら…。

西日本ではなく、東京で作られたミルクだったら…。

そう考えると、人生なんて神様のさじ加減で天と地ほどの違いがあるものです。

健康に生まれ、今もこうして健康に暮らせる体を親が与えてくれた。けれどそれはあたりまえではなく、実は奇跡なのかもしれません。

最後に被害者と親で組織する「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」の公式サイトのリンクを張っておきます。事件の詳細はこちらからどうぞ。

森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会(公式ホームページ)

森永ヒ素ミルク中毒事件資料館

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