「こんなにがんばっているのに上司から評価されない。実力の点ではアイツとどっこいなのに、なぜか上司はアイツばかり可愛がる」
友達と集まると、時々そんな愚痴を耳にすることがあります。
私もスポーツをやっている関係で、縦社会にはありがちな、こういった悩みを抱えた時期もありました。
でも最近はこう思います。実は他人の評価なんて、あまりあてにはならないと。
だからそんなことを気にするより、自分ができる努力、つまり「昨日よりちょっと頑張る」を、毎日続けていけばいいんじゃないのかと。
その理由を以下でお話ししていきます。
他人の判断基準はまちまち
同じ土俵で比べるべきことではないことは百も承知。一つの例ですが、国語が全くダメでも数学はずば抜けた成績を取る理系の人と、国語はずば抜けているけど数学はからっきしダメという文系の人がいたとします。
「どちらが頭脳明晰か」と両者を比較をした場合、一般的には「数学ができる人は頭がいい」などと言われているから理系の方が有利かもしれません。しかし中には「日本人である以上、母国語がきちんとできる人の方がすごい」と考える人もいます。
飲食店などもそうですよね。少々値は張るけど雰囲気は最高、しかし味は普通というお店と、内装はイマイチだけど、リーズナブルで味は折り紙つきというお店。
「あなたにとってどちらが良いお店ですか?」となれば、評価は真っ二つに分かれます。
他人の評価は参考程度に聞くべき
このように判定を下す人の価値基準で答えは全く違ってきます。つまり評価なんていうのは的確なものもある反面で、中には主観的な独善的な意見や感想、あるいは個人の勝手な思い込みも含まれていることも少なくありません。
だから参考意見程度に聞くのはいいかもしれませんが、それを気にしすぎる必要はないのです。
もし自分が高く評価されなかった場合、それはそれで悔しいかもしれません。でもそれは判断する人、つまり第三者の考え方だから、自分でどうこうできる問題ではありません。
できることがあるとするなら、自分なりの売りを作る、つまり結果を出すしかないわけです。しかし他人からの評価をやたら気にする人は、そこでつまづきます。
結果を出す目的が「評価を得るため」であってはならない
例えば受験。「どうしてもこの大学に入りたいから勉強する」のと、「合格して周囲に『すごい』と言わせたいから勉強する」のとでは、受験をする行為や合格をした結果は同じであっても、根本的な目的が違います。
前者は内側を満たすための努力をして合格した。合格は自分で掴み取った証明だからこそ、他人の評価なんて関係なく、自分の願望が叶えばそれで満足できる。しかもその満足は持続する。
しかし後者は「すごい」と言われたい、賞賛されたいことがそもそもの目的で、そのための手段が受験だから、仮に合格をしても、期待したほど周囲が「すごい」と賞賛してくれなければ不満が募ります。
悪く転がる引き寄せの法則が働く可能性もあり
これも他人からの評価と密接な関わりがありますが、「落ちたらみっともないから勉強する」というタイプ。
これは悪いことをイメージすると、なぜか悪い方に転がるという「引き寄せの法則」が、まんま働く可能性があります。
実際これで萎縮して、ふだんの実力が出せなかった人も身近にいます。仮に合格したとしても、合格した喜びより「みっともなくない状態になったこと」に安堵する気持ちが最初に来るから「落ちなくてよかった」という感想しか抱けないのです。
これではあまりにも、せっかく頑張ったのにつまらないと思いませんか?
最後に
確かに結果と評価は切っても切り離せない部分があります。生きている以上、評価されたいから頑張るのも必要です。
しかしあまりに評価ばかりを気にしすぎると、肩に力が入りすぎて空回りするのも事実。
そのあたりのバランスをどう取るかが、結果を出す人と出せない人との違いではないでしょうか。以上です。
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