先週火曜日の検査は、悪性の卵巣がんを疑ってのものでした。
それから今日で5日が経過し、当初のショックは薄れたとはいえ、心の中は不安と恐怖でいっぱい。
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明日は検査結果の報告を受け、手術の日程やそれに伴う入院の手続きなどが話し合われるでしょう。
この数日、今まで考えなかったいろいろなことを考えました。
人の不安は大きく分ければ2つに集約される
生きることが前提の不安
こんなご時世ですから、人間誰しも悩みや不安はつきものでしょう。
例えばお金のこと、人間関係のこと、仕事や家庭のことなど何かしらの葛藤を抱えて日々生きていると思います。けれどそれらはすべてこれから自分が生きていくことを前提としたものです。
死を前にした不安が突如襲い掛かる
一方重い病気、それが命に関わる内容だとしたら、自分の向かう先が死だとしたら、はっきり言って生きていく上での悩みなんてどうでもいいとすら思います。
生きてさえいれば、だいたいの悩みは解決します。解決しないまでも、自分なりに折り合いをつけるポイントまでたどり着きます。でも死んでしまえばそれもできません。ジ・エンドです。
私は先週のこの日まで、まさか自分の身にこんなことが起きているとは思いもしませんでした。だから悩みと言えば、先に挙げた、生きていくことを前提としたものでした。
けれど、今は違います。今の不安は、「これから私、どうなっちゃうの?」というもの。重い病気を抱えた人は、きっとみんなこのようなことを考えるのでしょうね。
ここから一歩でも前進したい
ならば「これからは病気と闘う」と思って治療に専念するしかないのですが、まだそう思える段階ではありません。
最近SNSで「←いまここ」というのがよく使われているようですが、私の「←いまここ」は、先の見えない不安の中にいる状態で、明るい光を求めて這い上がろうとする前段階にいます。
それが運命と言われればそれまでですが、「なんで私が?私、何をした?」という思いも捨てきれません。
ほんの一筋でも明るい光が見えれば、治った自分をイメージしながらそこに向かえますが、今は光のかけらもありません。
「こんなことではいけない」と、一歩でも前進したいけど、私の進む道がどこに向かうのかがわからなくて、怖くて足が出ない状態です。
「人はいつ、どうなるかわからない」というのは、死を他人事に考えている言葉
つい最近、元気にスキー旅行に出かけて事故に遭って亡くなられた方々のことが大きく報道さました。かつての飛行機事故などもそうでしたが、あのような時、たいてい人はしたり顔でこう言います。
「人はいつかは死ぬ」とか「いつどうなるかわからない」と。だから、「先のことなんか考えたって始まらない」と。
確かにそうです。人は生まれれば後は死ぬだけ。そんなのはあたりまえ。でもそれは「遠いいつか」であって目前ではないと思っているから言えること。
私はいつまでも今の幸せが続くと、ついほんの1週間前までそう信じていました。
「忙しい、忙しい」と言いながら、毎日元気に練習に明けくていた日々。かわいいチビたちに囲まれ、優しい夫と過ごす日々。仲間に囲まれて笑い転げた日々。
それらはみな、宝の時間でした。その中にも不満や悩みはありましたが、そんなのは今から思えば贅沢なものだったと実感します。
最後に
「不安を受け止める 心の負担を軽くするために」というサイトの中に、「がん患者がたどる心のプロセス」が紹介されています。
今は落ち込んでいても、そしてそれは正常な反応だとしても、「これは生きていく上で必要な心のプロセスである」と結ばれています。そこまでたどり着けば、光を目指して前進できると思います。
今の願いはただ一つ。
光が欲しい!
生きたい!
早く、心だけでも元気になりたい、それだけです。
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