8月19日、埼玉県川口市内のアパート前の駐車場で殺人未遂事件が起きました。未遂といっても傷があと5ミリずれていたら致命傷となり、罪状は変わっていたでしょう。
逮捕されたのは「綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件」の元少年こと湊伸治45才。
この事件は我が国犯罪史上においても稀に見る、凶悪かつ残忍な犯罪として、約30年経った今でも語りつがれています。この事件のことはもちろん知ってます。当時大騒ぎになってたことも知ってます。でも自分とは関係がないこととして、そこまで細かくチェックしておらず、「コンクリート殺人事件」と聞いても「ああ、そんなこともあったな」程度。
でも先日流れてきたTweetを見て、背筋が凍りつきました。あまりの酷さに吐き気。そして涙。途中で苦しくなって読むの止めたくらいです。30年が経ち、自分の立場や視野が変わると、感じ方も違ってくるのですね。また当時の報道でも、ここまで詳細でストレートな記述はなかったような?
女子高生コンクリ詰め殺人の被害者のご両親ほど、少年法に怒り狂い憎悪した者はおらんだろうて。
世代から外れてる私すら、概要を目を通しただけで気分が悪くなる所か、体調がおかしくなる程だ。
もはや人の所業ではない。 こんな鬼畜という言葉すら生ぬるい化物がのうのうと娑婆に出て再犯…だと…? pic.twitter.com/HoKMWLFaW1— もしゃもしゃ (@muchamucha7) August 21, 2018
私は法の専門家ではありません。やれ少年法だの社会正義だの死刑制度だの人権がどうのと、ウンチクを語りたいわけではありません。小難しい話は専門家にお任せします。どの道、司法の専門家は「前例命」で、前例がないことは見て見ぬフリを決め込み、きれいな言葉で片付けるでしょうから。
以下に書くことは、「これがもし、私のたいせつな娘だとしたら」という想像と、一主婦の観点で考えたことです。どうぞお付き合いください。
一審最終陳述書の一文
この写真は週刊新潮9月6日号の特集記事23ページからの「新聞・テレビが報じない少年法の敗北」という記事の一文です。
私の感情を揺さぶった文章を抜粋します。
「今思えば(被害者を)人間だと思っていなかったというか、その頃は、人間というか、そういうものも考えていなかった」
後の公判での湊の言葉である。一審の最終意見陳述では、しおらしい態度でこう述べてみせた。
「古田さんや世の中の皆さんに大変迷惑をかけ申し訳なく思っている。自分はまだ未熟だが、しっかり反省して一生償っていく」
それから28年──。
少年法に守られた彼の更生が単なる「理想」に過ぎなかったことを、湊は自らの行為によって証明してみせたのである。
もし被害者の親ならどう思うだろう
「たいせつに育てた私の娘を人間だとは思ってなかった」
私がご両親ならと思うと、この一文でもう無理。
凌辱の限りを尽くされ、痛めつけられ、死してもなお”人間じゃない”と冒涜された我が娘…。
「ふざけるな」と。「人間じゃないのはどっちだよ」と。「私の宝をこれ以上汚すな」と。
もし本当に反省しているのであれば、そんな言葉は出ないはず。「”反省”とか”償い”という言葉の意味さえロクにわからないくせして、かんたんに使うなよ」とも思うでしょう。
反省ってなんだろう
裁判では、反省しているフリをすれば心象は良くなるから反省の言葉を口にする、というのはよく知られています。特に「少年法審判は和やかに行う」(少年法第22条1項)となっているから、こんな形ばかりの薄っぺらい陳述でも「反省の言葉」になるのです。
でも…。こういう人たちの言う「反省」というのが私にはよくわからないのです。
少なくとも「申し訳なく思ってる」と、頭を下げて見せることが反省でないことだけは確かで、そんなのは場を乗り切るためのただの「計算」です。それと自分を責め続けることも、またちょっと違うと思うのです。
自分の中を見直す、自分の弱さと真っすぐに向き合って、その弱さと共に生きることを受け入れる…。そうやって生き方を変えることこそが「反省した表れ」になるのではないか…とは思います。──できなかったようですが。
反省は、自分で安易に「する」と宣言するものではなく、その人の中で何かが変わったことを周囲が認めて初めて「反省したこと」になるのです。
何をどうしても償いにはならない
「償う」と言うのも同様。こういう人たちはいったい何を持って「償ったこと」にするのか、それもよくわからないのです。
“あの日”を堺に娘の不在がずっと続き、これから先も娘不在のまま自分たちが生き続けていく…。絶望しかありません。
「”償う”と言うなら、今すぐ娘を元通りの姿にして私に返してよ。かつての日常を私たちに返してよ」と、それしか願えないでしょう。
どう考えてもそれは到底不可能。ということは、何をどうしたって”償い”きれないのです。
自覚がなければ更生は不可能
でも裁判では「一生償っていく」と言ってたそうです。できもしないのに「償い」という言葉を安易に口にする。それこそが「償いきれない罪を犯したことへの自覚のなさ」を表しているのだと、私が被害者の親ならきっとそう思います。
でもそんなパフォーマンスでも「反省」していると捉えた司法の判断。やはり、絶望しかありませんよね。
懲罰=償いではない
「目には目を」という極論で語りきれないのは百も承知です。人の命を奪ったら、自分の命で償うしか方法はなく、でもそれをしたところで奪われた命は二度と戻らない。だから「償いきれない罪」なのだと、せめてその程度の自覚くらいは持ってくれ、とは願います。
刑務所に一定期間放り込まれて自由を拘束されることは”懲罰”ではあるけれど、人を殺めたことへの本当の意味での”償い”にはなってないのだと、そのことも自覚してくれ、と願うでしょう。
しかし本人は、刑期を終えれば無罪放免だと思っている。罰を受けても罪が消えるわけではないのに…。
でもそれは当然といえは当然。だって自覚がない者に対していくら罰を与えても、当人の意識は「その間(刑期)を模範囚として無難にやり過ごす」ことにだけ向かい、自分の罪に向き合うことはないだろうから。
じゃあどうしたら、何をしたら償ったことになるのか?
そう考えると、私にもこれといった明確な答えが浮かばないのです。
「罪の償い」という漠然としたイメージはあるけれど、やはりそれは被害者家族が判断することであって、外野が決めることではないのです。と考えると、人が人を裁くことへの限界を感じます。特にこれだけの凶悪事件ならなおのこと、「絶対的に正しい裁き」はありえないのです。
なぜなら4人中3人が再犯で逮捕、残る1人は引きこもりという結果がそれを証明していますもの。
最後に
それらも含め、どこまでいっても救いがない、本当にやりきれない、後味の悪い事件です。
せめて被害者及びそのご遺族に寄り添った心ある法改正に向けて、もっと積極的に取り組んで欲しいものだとしか、今はそれしか願えません。
最後に、絶望の末に短い生涯を閉じた古田順子さんのご冥福をお祈りします。
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