被害者を追い詰めるのは加害者だけではありません。それは、傷ついた被害者を平然と非難する人。性的被害を受けた人を苦しめる風潮なんてまさにそれ。なぜ被害者を平然と非難するのでしょう?
被害者、加害者という立場がはっきりしているなら、加害者が悪いに決まっている。それなのに「やられる側にも問題がある」と被害者を非難して追い詰めるなんてありえない。なぜそんな簡単なこともわからないのでしょう?
これは以前からずっと不思議でした。で、ふと目にした記事に、その答えが詳しく書かれていました。以下は「公正世界仮説」の説明です。
なぜ被害者が責められるのか?被害者を責めるのはどんな人?(米研究) : カラパイア
個別化的価値観:どんな場合であっても人に危害を加えるべきではないし、人々は平等に扱われるべきであるという価値観
結束的価値観:集団や和を大事にし、権威に対する忠誠心や服従心が高く、純潔を重んじる価値観
英訳なので文章がちょっとわかりにくく感じたら、以下の方がピンとくるかもしれません。併せてご覧ください。
公正世界仮説を信じつつも、シビアな目で現実と折り合いをつける
「なるほどな」と感じました。しかし上記リンクで紹介されている「公正世界仮説」だけではないと私は考えてます。誰だって、自分が暮らす世界だけは安全であって欲しいと望んでいます。
ところが現実には毎日のように事件・事故が起きてます。生きていれば、意に反してある日突然信じられないトラブルに巻き込まれることだってあります。そうやって様々な経験、身の回りに起きた出来事を通して、理想と現実の違いを体感して人は大人になっていくのです。
ただしこれは「大人になること」=「理想なんて所詮夢物語」という投げやり的な諦めとは違います。自己の信じる理想を抱きつつも、常にどこかでシビアな目を持ち、「それもまた人生だ」と、現実と向き合いながら折り合いをつけることが大人になるということです。
事なかれ主義=老害
けれど、それができない人もいます。長年生きてきた経験では、「事なかれ主義」の人ほど視野が狭くて浅く、かつ柔軟な考え方ができない傾向が強いです。行動範囲も限られているから経験値も少ない。だから想像力にも限りがあるのです。
その足りない想像力を補うために、身勝手な理屈を持ち出しては被害者に心無い言葉を投げつけるのです。ただの老害ですよね。
本質を直視しようとしない事なかれ主義
例えば過去に起きたいじめ自殺事件を見ても一目瞭然。いじめによって人一人死んだという結果があるのに、身近にいる関係者ほどその結果を直視しようとしません。
事なかれ主義というのは、自分がラクをしたいばかりに直視しなくて済むような、曇ったメガネをわざわざ選んで物を見ようとすることがよくあります。見ているフリだけはするけど真実は見えてない。というより、最初からちゃんと見ようとしてない。
だから「あいつはいじめられるタイプだよな」と被害者側の問題、つまり「被害者がいじめを受けてもいい理由」を探し始めるか、「気がつかなかった」と知らぬ存ぜぬを決め込もうとするのです。
この手の事件が起きるたびに、関係者の小狡さがミエミエでウンザリでした。
事なかれ主義のベースは保身
「人と違う個性を持つだけで、イジメが起きることの方がおかしい」というあたりまえの理屈は二の次。そんな時はたいていその人が自分では意識していない無意識化の感情に囚われています。
その感情とは「面倒なことをしやがって」と、自分が理想とする平穏な暮らしを脅かされたことに対する怒りがメインです。
その怒りを「あいつは○○だからいじめられて当然」と、被害者に向けるのです。
これは教育現場だけではなく、職場や地域、ママ友の世界などにも通じますが、それらのベースは、みーんなちっぽけな保身から発生しています。
嫉妬による嫌がらせは「嫉妬される方が悪い」なんて考え方はウンコです
さてここからは私の体験談です。嫉妬による隣人の嫌がらせが頻発して悩んでいた頃のこと。
嫌がらせといってもかなり悪質で、刑法に照らし合わせれば家宅侵入・器物損壊という罪状がつく内容です。実際に何度も警察に相談に行きました。
そんな折、ある人からこう言われた、まさかのなにそれ。
「嫉妬される方が悪い」
その人いわく、「人と違うこと、目立つことをするから嫉妬されるのよ。田舎に住む私の母は、何をするにも極力目立たないように、人の顔色を伺いながら周囲に隠れて生きてきた」のだそうな。
理不尽な嫌がらせでノイローゼになりかけている人に対して、よくもまぁ、そんなことが言えたもんだ…。
それよりなによりたった一度きりの人生、なんで息をひそめて死んでるような生き方をしなきゃならない?
何をするにも人の顔色を伺いながら生きていけ?
ばっかばかしい。仮にその人のアドバイスに従えばどうなる?
加害者を喜ばせるだけじゃない。
「嫌がらせに対するいちばんの復讐は、自分が幸せになること」と信じている私には、どうしてもその言葉は受け入れられませんでした。
これはもう、典型的田舎のおばさん気質です。しかもそれを自分で気づいてないときている。誰がどう考えたって、醜い嫉妬心から犯罪行為に走る方が悪いに決まっている。
いい年してそんな善悪の区別もつかないのだろうか?
自分の頭を使って考える習慣が、この人にはないのだろうか?
これをおかしいと思う私の方がおかしいのだろうか?
もう頭の中が、クエッションマークだらけになりました。
嫌がらせをされたことよりも、この言葉の方が当時は悔しかったですね。
まぁ近隣住民だからこその保身に凝り固まって真実を捻じ曲げて考えることは、ある程度理解はできます。でもタイミングとしてあまりにも無神経すぎて、開いた口がふさがりませんでした。
保身に凝り固まった人の話はつまらない
このように身近にいる人ほどトラブルに巻き込まれたくないという理由で、本音を明かしません。巧妙に問題をすり替えていくのです。
そこには根幹の 「自分らしさ」を感じさせる意見などどこにもなく、「どこかの評論家が言ったような、決まりきったきれいごとを並べるのが関の山」という想定が簡単にできてしまいます。
そんなしらじらしい上っ面の会話なんて「話をしても時間の無駄」としか思えないし、得るものなんてひとつもありません。
次元が違う人とはわかりあえない
以上のような体験を通してわかったこと。それは、近くにいる人でも、同じものを見聞きしても、二次元と三次元くらい次元の違う人たちがいるってこと。
そういう人にはいくら何を言っても無駄。わかった気にはなっているけど、彼らは全然わかってない。それどころか、自分がわかってないことすらわかってない。「宇宙人と会話するって、こういうことか」と身をもって知りました。
わかろうともしない人には何を言っても無駄だと悟り、やがてそういう類の人たちと距離を置くようになったのは言うまでもない話。おかげで今はとても快適です。
やはり付き合うなら同じ星の同じ次元の人と付き合いたいと、この一連の出来事を通してつくづく思い知らさせれました。以上です。
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