今月5日、岩手県矢巾町の中学2年の男子生徒が、いじめを苦に飛び込み自殺をしました。
このようなニュースが流れると「あ、またか」と思ってしまうくらい陰湿ないじめは日本に蔓延しています。
マスコミや世間は「学校は、担任は何をしているんだ」という議論が加熱し、それを受けて学校側は「いじめがあったという認識はない」というお決まりの回答をします。これも毎度のことです。
事件の概要
けれど今回ばかりは「いじめはなかった」ではすまされない「生活記録ノート」が見つかりました。
担任とのやり取りの中で、「いじめられている」「死にたい」という本人直筆の記述がありました。これはもう「いじめは確かに存在していた」という立派な証拠になるはず…と思いきや、やはり知らぬ存ぜぬを決め込んでいます。人ひとり死んでいるというのに。
その一部を抜粋します。
また、午後7時から開かれた緊急の保護者会で、校長は「これまでいじめがあったという認識はない」と述べたということです。出席した保護者からは、担任が欠席したことへの不満の声が相次いだということです。 出席した保護者:「明白なご説明というのは全くなく、担任の先生をかばっているような」 校長:「私の認識のなかでは、まだ自殺なのか事故なのかという結論が出ていないのかなという認識はあります。校内で、私のところでそれ(生徒が書いたノート)を共有している事実はありませんでした」
連絡ノートに“いじめ”の記述…中2男子、自殺か(テレビ朝日系(ANN)) – Yahoo!ニュースより
人を追い詰める集団心理の怖さとは?
いくらいじめを苦に自殺をしても、加害者の名を挙げ「○○にいじめられた」と遺書を残しても、ひとたび学校側が「いじめはなかった」という方針を打ち出せば、その後の対応は自動的に決まってしまいます。
それはこれまでに起きた数々の事実が物語っています。 どう考えても刑事事件に匹敵するような暴力的な行為があったとしても、学校側は「いじめではなく当人同士の揉め事」で片付けようとします。当人同士の揉め事にすれば、「学校は関係ない」という逃げ道を作れますからね。いじめを知っていた周囲のクラスメイトだってその方が楽です。とばっちりを受けたくないから見て見ぬふりをするのです。
でも一番怖いのはここです。人の脳にある目標を設定すれば、「それに適合しない事実はもみ消してしまえ」という無意識の意識が働きます。そうなると、どんなに訴えても被害者の声なんて届きません。
すると、いじめの事実は自動的になかったことになるのです。 教師たちに必要なのは「余計な仕事を増やさない、面倒をかけない生徒」です。
そう、彼らにとって一番怖いのは責任の所在ですから、いじめを働いた生徒が悪ではなく、余計な仕事を増やしたことが悪となるのです。つまり、被害者であっても加害者であっても、教師にとっては同じ位置づけなんですね。 むしろ自分が被害者くらいに思っているかもしれませんよ。
「余計な仕事を増やしやがって…」とか、「これで退職金が減ったりしたらどうしてくれるんだ?」とかね。もちろん教師全てとは言いませんが、少なくともあの学校の教師はそんな程度の姿勢だったと思います。 もしまともな判断能力があれば、あの悲痛なSOSに対して何らかの行動を起こしていたはずです。
でも、誰もそれをしなかった。集団心理で言うところの正義とは、道徳的に何が正しいかではありません。絶対的多数意見が正義なのです。だから被害者はどんどん孤立し、絶望していきます。だからもし訴え出るならそこを飛び越えたもっと上の機関(第三者委員会や警察)に話を持って行った方がいいと思います。
「いじめはあるもの」という前提で動くべき
いじめを苦に自殺をして損をするのは死んだ被害者です。加害者は「ちょっとからかったくらいで死にやがった」くらいにしか思ってないでしょう。
あるいは「嫌いなアイツが死んでセイセイした」くらいに喜んでいるかもしれません。人ひとり死んだところで、いじめはなくならないのです。 それならせめて、「人の集団がある限り、いじめはあるものだ」と、親は最初から子どもに教えておくべきではないでしょうか。
いじめをなくすことを前提に行動を起こすより、「いじめはあるもので、いくら被害を訴えても、事なかれ主義の学校は動いてくれない」と思って動いた方が、少なくとも自殺までには至らないと思います。
もしいじめを受けたなら?
今、自分にいじめグループに立ち向かう強さがないなら、とりあえず逃げることが先決です。自殺に追い込むような学校に通う必要がどこにあるのでしょう。相手に良心や常識を求めたって無駄です。
今、いじめを受けて悔しいなら、それを忘れてはいけません。無理に許そうとする必要もありません。今の悔しい気持ちを素直に受け入れましょう。生きてさえいれば、必ず仕返しのチャンスは巡ってきますから、もしそんな時がきたら、正面きって、正々堂々と、コテンパンにやっつけてあげればいいのです。
これはいじめをいじめで返すという低レベルの方法ではなく、あくまでも正攻法で、という意味です。だからその悔しさを忘れないで、バネにして、力をつけてしぶとく生きていってほしいです。
でもただ逃げるのではなく、いじめの証拠だけはしっかり掴んでおくことを忘れずに。 風向きはいつか必ず変わります。今、どこにも光が見えず、八方塞がりの状態であっても必ず光は差し込みますし、ドアは必ず開きます。でも死んだらそんなチャンスだって永久に来ないのです。
だから今は生きるために逃げてください。だけど、いつか必ず来るその時のために、少しでも強くなってください。勉強でもスポーツでもなんでもいいから、「これだけは絶対に負けない」という、自分の売りを作ってください。そうすれば、やがてはそんなバカな奴らのことなんてどうでもよくなってきます。
その時が本当の勝ちなのです。集団でいじめを働く人間なんて、所詮戦う前から負けっぱなしの負け犬なんですから、それを生きて証明してあげればいいのです。
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