人が抱える罪悪感について考えてみました。
罪悪感とは、weblio辞書によれば「悪いことの意味、非難の意味、非難されるべきことをおかしたという気持ち」となっています。
あたりまえの道徳観念があれば、していいことと悪いことの区別はつくはずですから、悪いことをすれば、人は誰でも罪悪感を抱くはずです。
1.自己正当化
ところが大きな罪を犯しても、それを悪いこだと重々知っていても、追い詰められれば人は保身に走り、「自分がこんなことをしたのは、あいつが悪いからだ」と、自分を正当化します。
やがて食うか食われるか、「窮鼠猫を噛む」の心境になり、その相手を糾弾しようと考えるようになります。そのために、必死になって味方になってくれそうな人を求めます。あいるいは相手の弱みを握ろうと、情報収集に走ることもあります。
最初は無理やり自分は悪くないと、現実逃避のような思いで自分を納得させようとします。
自己正当化はほんの気休めでしかない
けれど、本当に心の底から納得できるのでしょうか?
必死に相手のせいだと理由づけしたところで、本当に罪悪感から逃れることができるのでしょうか?
答えはNOです。そう思い込むことで一時は楽になるかもしれません。
でも長くは続かないはずです。だって悪いことをした事実を知っているのは誰でもない、自分自身だから。いずれは罪の意識に押し潰されて自滅していくと思います。
真の意味で罪悪感から解放されるのは、命を終える時です。仮に世の中全ての人にシロだと思わせても、クロであることを知っているのは自分自身です。結局最後は自分との闘いです。
2.不可解極まりない行動
罪悪感を抱えた人間は(とりわけ気の小さい人ほど特に)、事実の表面化を最も恐れ、傍目から見た時に「なんであんなことを?」と思うような不可解極まりない行動をとるようになります。
その不可解な行動とはなんでしょう。
逃げる
その対象から離れたいという思いが強く、その人と偶然ばったり出くわせば、そそくさと逃げていきます。やましくなければ堂々としているはずです。
人目を気にする
「自分は疑われているのでは?」とびくびくするあまり、人目を気にするようになります。自分に注がれた周囲の視線が一番怖いのです。そのため、人が集まる場への露出度が、極端に少なくなります。
言い訳が多くなる
言い訳が全て悪いとは思いません。時には必要な場合もあります。けれど罪悪感を抱えた人は、先回りして過剰な言い訳を繰り広げます。結果、そこから疑われてしまうのです。これも、罪悪感から生まれる行動の特徴です。程度の差こそあれ、私がこれまで見てきた人はみなそうでした。
その対象がいなくなったらどうだろう?
ではその対象が自分の目の前から消えてしまえばどうでしょうか。相手に引け目を感じれば、「あいつがいなくなれば」と願うはずなので、もし本当にそうなったら、願ったり叶ったりになり。最初は両手を挙げて喜ぶでしょう。
でも今度はもっと深い闇が襲ってくるはずです。人の不幸を願った自分の行く末に対する見えない不安が襲ってくるからです。
よく言いますよね。「人を呪えば墓二つ」と。無神論者であっても「バチが当たるのでは?」と、怯えながら暮らしていく姿が目に浮かびます。
仮に何かの不幸がその人に襲い掛かった時に、「これは自業自得かもしれない」と、自然に思うようになるはずです。
まとめ
こうして考えると、罪悪感を抱えたまま生きていくのは不幸ですよね。人が本当に幸せに生きていく条件は、自罰も他罰もない状態です。
人は自分の非を認めたくないという思いがあるものですが、ちっぽけなメンツにこだわると、失うものの方が大きいと思います。憎しみのエネルギーは、いつか必ず自分に返ってきますから。
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