長い夏休みが終わり今日から新学期。いつもの通学風景を横目で見ていたら、ふと、子供の頃の夏休みの出来事を懐かしく思い出していました。
私には忘れられない夏があります。それは私が小学6年生の夏のことです。
たった3ヶ月の出来事ですが、私にとってはその3か月が夢のような宝の時間でした。後に恐怖に変わるのですが…。
その頃実家では建て直しを計画していました。
一学期が終わるのを待って仮住まいに引っ越し、即新築工事に踏み切る、という手筈です。
建て直しなので仮住まいが必要となります。普通なら近くに借りるのが一般的なですが、予算の関係でとんでもない場所が仮住まいとなりました。
実家は商売を営んでおり、工事期間中は収入はゼロ。
だから余計な金をかけたくなかったのです。実家は駅から徒歩圏内の商業地。 いわば市の中心地で、とても便利な場所でした。
ところが仮住まいの場所は、駅からバスで30分以上のド田舎です。仮住まいと言えば聞こえはいいですが、実は人が何年も住んでいない廃墟です。とりあえず屋根と塀だけはあるけど、とても家とは言えない代物でした。
後に「よりにもよって何であそこを仮住まいに選んだの?」と親に聞いたら、「家賃がタダだったから仕方なくそこにした」というのです。
いやいやそれにしても、タダほど怖いものはありません。まず引っ越す前に両親のひそひそ話を聞いて飛び上がりました。
「家の掃除に行ったら青大将がとぐろを巻いていたんだよ・・」と父。
「そんなこと、子供たちに言ったら怖がるから行くまで黙ってて」と母。
両親の会話はまだ続きます。
「ところでその蛇、どうしたの?」と母。
「青大将は家を守るというからそのままにしてきた。どうせ悪さしないだろう・・」父は平然とそう言ってのけます。
「そ、そのままって、まだそこにいるってこと?とぐろ巻いて?」
両親の会話はまだまだ続いていましたたが、私は青大将の恐怖だけで後の会話は聞こえてきませんでした。
悪さをするとかしないとかの問題ではありません。
家の中で青大将がとぐろを巻いているようなところに住むなんてありえないし、それを子供たちには黙ってろって言う母もどうかと思います。というか、絶対おかしいって。引っ越す前からこんな調子で、もう前途多難…。
そして引っ越しの日は1学期の修了式の日です。私が学校から帰ってくるのを待って、一路、姉の運転する車で青大将の待つ家へ…。
ドキドキしながらその家に入りました。本当に古い家です。家というより物置きに近いバラック小屋。入口を入ると大きな土間があって、その奥には風呂場と台所がありました。
そのエリアは土間の延長線上にあるため土足で歩くスペースです。家の中を土足で歩けるなんて・・。
土間の右手には畳10畳くらいの和室が一つ。土間の左手に20畳くらいの和室があってふすまで仕切ると二部屋になります。
その和室の前に廊下があって縁側があってという、スローライフにはもってこいという古民家です。
一体、いつの時代に建てられたものでしょう?
時間がそこでストップているような不思議な感覚を覚えました。
その感覚は今でも鮮明で、そう考えると、驚くほどの金持ちが建てたインテリアや建築関係の雑誌に登場するような贅の限りを尽くしたスンバラシイ家よりも、記憶に残るのはそんな家なのかもしれません。
家に土間があるなんて…。
町中で育った私はそれだけで感動。
縁側から外を見てもっと驚きました。
ヤギがフツーに散歩してる…。
そのヤギとはお向いさん(といっても50メートルくらい先)がペットとして飼っているヤギですが、人馴れしているらしく、私たちが引っ越した直後からちょこょこ遊びに来るようになりました。
それにしても、これだけ田舎に来ると、ペットまでお街とは種類が違うらしい。私の感覚では、ペットを飼うなら犬か猫、せいぜいインコと相場は決まっていましたが、まさかヤギが散歩に来るような家に住むことになるとは…。
見るもの全てが驚きの連続。しかも私はヤギを間近で見るのは初めて。せっかく遊びに来てくれても、12歳の私はどう接していいのかすらわかりませんでした。
自宅の前方には登山口があります。そして自宅の後ろには川が流れていて、その道を歩いていくと上流にはキャンプ場があるらしい…となっていますが、登山をする人の姿も見かけませんでしたし、キャンプに来ている人もあまり見かけませんでした。
自然だけは豊かですが、メジャーな観光地ではないので、わざわざ遠方から遊びに来るような場所ではなかったからです。そこだけが時間が止まり、ゆっくりゆっくり時が流れているような、静かでのどかな山里。
実家にいる頃は自宅が商店街のど真ん中でしたから、アスファルトの道を歩いていてトカゲに遭遇することなんてなかったし、朝、目を覚ますと頭の上に得体のしれない虫がいた、なんていうこともありません。
でもそこでは日常茶飯事です。しかもクモだって色鮮やかで異常にデカい。
「北の国から」の純と蛍の気持ちをわかるのは、きっと私だろう。…って、話しが逸れてる、テヘッ。
でもそんな山里暮らしにも次第に慣れていきました。母が山形の出身だからです。井戸で水を汲んで薪で風呂を沸かし、竃でご飯を炊く。両親は嬉しそうに山芋を掘りに行ったり、木の実を取りに行ったりして自然の中での暮らしを謳歌していました。こんな両親の姿を見るのは初めてでした。
商売をしている関係で、慌ただしく仕事をしている両親の姿しか見たことがなかったから、私には新鮮に思えたて嬉しかったのです。
いつも親とべったり、一緒にいられることが何よりも嬉しかったのです。
夏休みの期間内に、学校の友達もその家に呼びました。
本当は親しい人数人だけのつもりでしたが、クラスのほとんどの子が遊びに来ることになり、急遽、担任の先生も同行することになって、ちょっとした小遠足です。
街中に住んでいると、こんな場所で一日遊べる機会なんてそうそうないからと、両親は張りきってたくさんのおにぎりを作り、たくさんのおやつを用意して引率の先生たちと一緒にクラスメイトたちの面倒を見てくれました。
特に父は男子を集めて川で釣りを教えたりして、けっこう得意げにしていました。
すぐにその地で友達もできた。隣家に住むシムラという女の子です。隣家といっても200メートルくらい先で、その家に行くまでうっそうとした山道が続きます。暗くなってからはとても怖くて行けないけど、日中はよく一緒に遊んだものでした。
シムラという苗字をなぜ覚えているかというと、その辺一体がみなシムラだったから。ご近所一帯がみなシムラって…。シムラのご先祖様は子だくさんの絶倫オヤジだったんだろうなぁ、知らないけど。
そのシムラは私より一つ年下の小学5年生。痩せてヒョロヒョロっとした子でしたが、笑顔の可愛い活発な女の子です。シムラにとっては私が珍しく、私にとってはシムラが珍しかったけど、仲良くなってしまえば壁はなくなります。
シムラには弟がいて、夏の間中、毎日のように3人で遊んで過ごしました。 お盆が過ぎると秋の気配を感じます。井上陽水の「少年時代」を聞くと、目に浮かぶのはちょうどこの頃のことです。あの歌の原風景は、まさに私があの家で過ごした夏の出来事とリンクします。
今とは違って、この当時は8月も末になると、夏の暑さはなりを潜め、朝晩はだいぶしのぎやすくなります。陽も短くなって、赤トンボが飛んで、空を見上げれば、入道雲から秋のうろこ雲に変わっていく、そんな変化に気づく頃です。夏休みが終わるのを、こんなに残念に思った年は後にも先にもなかったと思います。
そして2学期が始まりました。バス通学で小学校に通いました。
初めてのバス通学。自宅から学校に着くまで40分以上かかります。シムラは毎日バス通学だったようですが、私にとっては初体験なのでワクワクしました。子供の頃というのは、なんでもないことがワクワクの対象になります。
2学期になると学校の行事も数多くなります。足の速かった私は、毎年リレーの選手に選ばれていました。その年は小学校最期ということで、アンカーに決まっていました。その練習もあったので、シムラと遊ぶ時間も徐々に減っていきました。 リレーのアンカーは運動会のヒーローです。
私は練習に没頭しました。一方父と母は相変わらず楽しそうにアケビの実を摂りに行ったり、栗を摂りにいったりして山里暮らしを謳歌していました。隣近所に対して煙りの心配をすることなく庭で自由にサンマが焼けます。山で採ってきた栗を使って竃で炊きあげた栗ごはん。あれは最高に贅沢なごちそうでした。本当に美味しくて、山の栗は小ぶりだけど甘さが全然違います。
あんなに美味しい栗ごはんは、あれ以降食べてないと思います。それにうちわで扇ぎながら外で焼くサンマの味、あれは最高です。
10月に入ると更に日が短くなりました。学校で放課後、リレーの練習をして、バスに乗って自宅に着くころにはすっかり日が暮れます。
街中にいると夕暮れであっても暗い道を歩くことはありませんが、街灯もなく、民家もまばらなその場所は、まるで夜道です。バスの終点から家のない暗い道を更にテクテク歩くと自宅に着きます。月明かりと星の輝きだけが頼りです。両親が青大将の他に、もう一つ私に隠したその事実を知ったら、とてもそんな道は歩けなかったはず…。
私の親は隠し事が多いのです。 10月末には自宅も完成して新居に引っ越し、元の生活に戻りました。新しい家になったら以前にも増して商売は忙しくなり、両親と過ごす時間は更に減っていきました。
私も中学・高校・専門学校へと進み、親といる時間よりも友達といる時間の方が長くなっていきました。なので親が商売で忙しくしていても、さほどさびしいとは感じませんでしたが、それでも時折、あの夏を懐かしく思い出していました。
それから何年かの時が流れ、あの夏の日の記憶も徐々に薄れていったある日、あの場所がマスコミによって取りあげられました。よりにもよって心霊スポットとして。
あの家のあったエリアは古戦場だったそうな。お城が近くにあって、そのお城が落城したときに、女子供たちはあの家の裏に流れる川で自害したそうです。古くからまことしやかに幽霊が出ると言われている、いわくつきの場所でした。
もちろん近所の人はみな知っているはずだといいます。テレビの取材で地元の人がフツーに答えています。「幽霊?ああ、よく出るよ」
もうびっくり仰天。
私はその事実を両親に問いただしました。
「ああ、あそこ・・。確かにオバケが出るとは聞いてたけど、でも、一度も見なかったんでしょ?ならいいじゃない。先に言うと怖がると思って黙ってたのよ。
それに、うちみたいなやかましい家に出てくるオバケなんていないわよ」と、軽-くあしらわれました。
「だから家賃がタダだったのよ」と、ケラケラ笑っていました。
ていうか、笑いごとじゃないし。何考えてっか、さっぱりわかんねーし。
青大将の存在を隠しただけにとどまらず、幽霊のことまで隠すとは…。
しかも「何事もなかったんだからいいじゃない」と開き直るってどーよ。
こうして子供の頃の美しい思い出は、全く意外な方向から塗り替えられ、オバケよりも怖い、両親の姿を浮き彫りにしたのでした。終わり。
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