Violet@Tokyo

溺れる者が自分の目の前で藁を掴んだら?

約 4 分



「スピリチュアル女子は守られるべきか否か論争に思うこと」という記事を読みました。


記事中では代替医療のことにも触れていました。それを読んだとき、胆管がんで亡くなった親友のことを思い出してました。特に「溺れる人が藁をも掴む権利」の文言。

この記事は巷で話題になっている、ちょっとアレなスピリチュアル女子の話ではなく、自分の目の前で溺れる人が藁を掴んだとき、どうあるべきかについての記事です。

余命1年と診断された親友は

コトの顛末をかいつまんで。

親友は職場の健康診断で肝臓の数値に異常が見つかり、詳しく検査。その結果、進行癌ですでに肺や肝臓に転移が見つかり手術は不可能と診断されました。

残る手段は抗がん剤治療。それは治すためというよりは進行を遅らせる程度のもの。

死の宣告を受けた親友が希望をつないだのは、ガンの餌となる糖質を取らず、毎日大量のにんじんジュースを飲むというもの。

「溺れる人が藁をも掴む権利」とは

正直その話を聞いたとき、なんとも言えない胡散臭さと感じました。その場に同席していたもうひとりの友人も同じ気持ちだったはず。

その人は看護師をしているので「そんな方法で本当にガンが治ると思う?」と聞くと、「今すぐどうということはないけど、ハッキリ言って厳しい状況。3年はないと思う」と前置きしてからこう言いました。

「今、健康でいる私たちは、彼女の選択をバカバカしいと思うでしょ?
でもすがるしかない状況に追い込まれた人は、信じられるものが欲しいのよ。
絶望しかないからこそ、自分を奮い立たせる拠り所が欲しいのよ。そこに希望を見出そうとしているのだから、それを止める権利は、私たちにはないんだよ」

上記の記事にあった「溺れる人が藁をも掴む権利」のことを言ってたのです。正論すぎて、このとき何も言えませんでした。

溺れる者の気持ちは、本当のところはその当事者にしかわかりません。でも精一杯想像をするなら、ある日突然あたりまえがあたりまえでなくなり、暗闇の中で一筋の光を探しあぐねている状態。手にしたものがなんであれ、構わず掴みたくなる状態。

そんな絶望の中で、やっと掴んだものを奪う権利が他人にあるのか?

「しっかり栄養を取った方がいいんじゃない?」と言いかけた口を閉ざしました。

藁を掴んだ親友を止められなかった後悔

その後親友は極端な食事療法により見る見る痩せて、体力を奪われていきました。そして、別れ…。

果たしてあの時の自分の行為が適切だったのかどうなのか?

彼女が亡くなってからすでに3年以上の月日が流れた今も、たまに自問自答しています。

心に刺さった小さなトゲは思いもしないところ──例えば怪しげななんちゃら療法とか、人の弱みにつけ込んだ信者ビジネスで、情弱者から金を巻き上げようとする輩を見たりしたときにチクチク傷が疼き、心に波風を立てるのです。

なぜいつまでも心にひっかかっているのか?

その答えが冒頭の記事の最後にありました。

デマは人を殺す。暴言は人を萎縮させる。藁にもすがりたい人を、藁なんかにすがらせてはいけない

「デマは人を殺す」というのは本当です。

不幸にしかならない藁にすがっているのを黙って見ていた後悔が、いつまでも心に引っかかっていたのです。正しい情報を提案するべきだったのです。

最後に

ネットも含め、周囲を見渡すと実に多くの「不幸につながる藁」が巷には溢れてます。なにが厄介って、枯れ果てた藁の風体をしておらず、表面を美しく飾っているところ。

そんな金メッキは早く剥がれて欲しいと願うばかりです。

 

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このブログは私が日々感じたこと、考えたことに独自の視点を交えて書き留めている忘備録です。読者の方に少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
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