まさに確信をつく今年の最優秀ツイート(私が勝手に認定した)がウーマンラッシュアワー・村本大輔さんのこのつぶやき。
「なにしても不謹慎だっていう奴、勘違いの代弁者ぶるやつは黙っとけ」
昨日載せた食べ物も熊本以外の人が「熊本の人に分けろや!」といい熊本の人は「分けろやなんて思いません笑」と言ってくれて、ライブも熊本以外の人が「不謹慎といい」熊本の人は「きてきて」と言ってくれる。体感した。勘違いの代弁者ぶるやつは黙っとけ。
— 村本大輔(ウーマンラッシュアワー) (@WRHMURAMOTO) 2016年4月20日
★詳細はガジェット通信を参照してください。
もうね、正論すぎてぐうの音も出ない。
今回の熊本地方を襲った大地震もそうだし、東日本大震災でもそうだったけど、こうした自然災害が起きるとあちこちで「不謹慎」という言葉が飛び交います。
大地震が起きると決まって「不謹慎」という言葉が飛び交う
自撮りの写真をアップしただけで「不謹慎」と攻撃された長澤まさみさんだけではなく、多くの芸能人が「不謹慎厨」の標的にされています。
ちなみに不謹慎の意味は以下のとおり。
【不謹慎】[名・形動]つつしみのないこと。また、そのさま。ふまじめ。
すると一目瞭然。今回「不謹慎」だと攻撃された人たちは、この意味には該当していません。
まぁ震災を利用して、ウサ晴らしに芸能人や著名人を叩きたいだけでしょうけど、被害はこれだけではありません。
教育の現場にもいた「不謹慎厨」
ネット上だけでなく「勘違いの代弁者ぶるやつ」は他にもいます。
少し前にも埼玉の中学で、卒業祝いの給食にお赤飯を出そうとしたら、教職員が「震災のあった日(3月11日)にお祝いなんて非常識だ」と言い出したのは記憶に新しいところ。
「3月11日に卒業祝い給食は非常識? 吉川の中学校で賛否…困惑も」参照
けれどTwitterには被災者からこんなステキな書き込みがありました。
3.11に卒業祝い給食が不謹慎だとかいう奴いるんだって?
妾は被災地から言わせて貰う
祝えよ!
何が不謹慎なもんか
生きている幸せを祝え!
学ぶありがたさに感謝して美味しく頂け!— 風助 (@fk1210jn31) 2016年3月10日
「不謹慎」と言ってるのは東北の被災者ではなく埼玉の非被災者が勝手に言ってるというあたり、村本さんの例とまったく同じです。
教職員ならなおのこと、被災者の気持ちを代弁するなら正確に代弁してほしいものです。
それができないならせめて「黙っとけ」ですよね。
保育園児が散歩をしたら「不謹慎」?
そして都内の保育園では園児までもが「不謹慎厨」の標的に。
@kiyomimi
熊本の被災者です。
こちらの子供達は避難所でも元気に遊び回っています!
メディアにもそんな姿を放送してもらうと、日本が笑顔になるのかなって思います!— あなたの町の整体屋さんイタ・ミト・レ~ル (@bembe23) 2016年4月18日
これも見事なズレっぷり。というか、ここまで来ると痛い。
「不謹慎」と言っておけば正義ヅラできると思っているなら大間違い。
「お国の一大事になにごとか!」とばかり、なんでもかんでも「非国民」だと決めつける、戦争中の憲兵を思い出しました。
熊本地震があったとしても、保育園児がはしゃぐくらい大目に見てあげられないかな?
まぁそれができないから震災にかこつけて保育園にイチャモンをつけているだけで、彼らにとっての「不謹慎」は、それを正当化するための便利な言葉にしかすぎません。
こうなってくると、「不謹慎だ」と他人を弾圧する人の方がはるかに「不謹慎だ」と言えます。
これに限ったことではなく、攻撃的な人ほどその人にとってなじみのあるフレーズを他人にぶつけます。それつまり、その人にとっての欠点やコンプレックス、こだわりの部分がそのフレーズになるわけです。
「これだけは断じて他人から指摘されたくない。だからこの言葉を使って先制攻撃をしかけてやろう」という思考回路が働くのです。
独りよがりな「べき思考」を他人に押し付けるな!
人の思いなんて他人が勝手に代弁できるはずはないということが、上記の例でおわかりいただけたと思います。
「あの人はこんなことをしているから被災地のことを何も考えてない」というわけではありません。
ふつうに仕事をしていても、家族のために料理を作っていても、学校で友達と笑い転げていても、仕事帰りに一杯ひっかけていても、きっと心のどこかで被災地のことを気にかけているはずです。
誰の心にもモヤッとした霧が流れているけど、みなそれぞれ、その日にすべきことをしながら生活しているのです。
被災地に向ける思いの強さを人と比べる必要もなければ、比べられるものでもなく、まして「自分はこんなに思っている」というアピールも不要です。
そういうのは各自が心に秘めておけばいい。ベストと思ったことを、できる範囲で粛々とやればいいだけのこと。人それぞれのベストが違う以上、「こうすべき」というのは各自が決めればそれでいい。同じである必要もありませんし、他人に押し付けるものでもありません。
そうすればおのずと、他人のある一面だけを見てかんたんに「今はこうあるべきなのに」と決めつけることができなくなり、なんでもかんでも「不謹慎だ」と他人を攻撃することも減るでしょう。
第一そんなことをしたところで、何かが劇的に変わるわけではありません。それどころか他人に向けた汚い言葉は、そっくり自分の身に返ってくるだけという負のスパイラルにはまるだけです。
それにも気づかない気の毒な人が、近視眼的にギュウギュウになって「我こそは正義の使者」とばかり、勘違いの代弁をしては自身の滑稽な姿を世に晒しているのです。実に悲しいことです。
不幸にもそういう人に出くわしたら、無視するに越したことはありませんが、それと同時に斜め上から哀れみの目で、生暖かく見守ってやってください。
だってその悪意、ミエミエですから。
では、今回はこの辺で。
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