自分が日常の生活を送っていても、どこかから非日常の空気が入り込んできます。暗いニュースであればあるほど、求めずともどこからでも入ってくるものです。最近では成人式当日に起きた「はれのひ」の件。あれはひどい事件です。
ニュースで第一報を聞いたとき、私は被害に遭われた新成人やそのご家族が、どれほど途方に暮れて、どれほど絶望の縁に立たされただろうかと想像してみました。
肌を突き刺すような寒さ厳しい真冬の明け方、ずっとずっと楽しみにしていただけにこれからどうしていいのかもわからず、茫然としていただろう、とは思う。「一生に一度の成人式」と思えば身体以上に、心が震え上がったことだろう、とも思う。泣きたくなるよね、ありえないよね。
けれどその人たちの気持ちを「100%、本当わかるのか?」と問われると、胸を張って「手に取るようにわかります」とは言いきれません。
わかるわけがない、自分が体験していないし、その現場に居合わせてないのだから。できるのは、想像力を駆使することくらい。
どんな事件・事故についてもそれは同じです。被害に遭われた当事者しかわからない、語れない、語ってはいけない部分は絶対にあるはずです。
論点がズレまくりの被害者批判
けれどいつの世も、そのボーダーラインを平気で踏み越える人はいるものです。今回で言えば、ヅラキャスターの「派手に着飾ろうとするからいけない。ボクの時代は学生服だった」もそう。「自分で着付けができないなら振り袖なんか着るな」もそう。
他にもたくさんの人がいろんな意見を言ってたけど、その中にはかなり、論点がズレまくっているものが目につきました。
あんたら禁欲主義者か!?
そう思うなら、黙って自分だけでやってろよ!
こういうとき、必ずそういうのが現れるのよね、もうウンザリ。
あの問題は、「振り袖をレンタルしますよ」「時間に間に合うよう着付けをしますよ」という”約束”に対してお金を払ったのに、その”約束”が一方的に破られたことにあるわけで、学生服だの着付けができる・できないなんていうのは無関係。なんでその本質から逸脱し、被害者側の問題にすり替えようとするのか、全くもって意味不明。
ふと、「私こそ世界でいちばん偉いのよ」と思い込んでいる、知り合いの鬱陶しいおばさんを思い出していました。
過度な自己責任論はブーメランにもなる
数年前、ゲリラ豪雨で近くの家が土砂崩れの被害に遭ったときのこと。裏山の土砂が流れ込み、新築間もない家が無残に傾き、到底人が住める状態ではなくなりました。
「ローンもあるだろうし、修繕費・その他を考えると、この先大変だね」と私が口にするとそのおばさん、なんて言ったと思います?
「(その家を)買う方が悪い」だって。
返す言葉がありませんでしたよ。専門用語ではこれを「公正世界仮説」と言うけど、自分に向けて自分を律するためにそう考えるのはけっして悪ではないけど、後出しで他人に向けるものではないと、そのとき思いました。
同時に「この人は、他人には自己責任とやらをぶちかますけど、いざ自分がその立場になったとき、同じように『自己責任だ』と、自分に対して思えるのだろうか?」とも考えました。
答えはNOだろうな。
こういう人に限って、他人に厳しく自分にはどこまでも甘い。
いざそうなれば人一倍「私はかわいそうな被害者です」と大騒ぎして、自分の落ち度のなさをあちこちに言って歩くだろうな、と。
けれど、いくら訴えたところで誰からも同情されず。
「自己責任でしょ?」と軽くあしらわれるのが関の山だろうな、と。
いや、それ以前に、自分がかつて被害者を叩いてきたからこそ、自分も同じように叩かれるだろうと思い込んで「助けて」とも言えないだろう。…と考えると、本当に損だな、と。
あるいは、損であることにも気づかない不幸を背負っている、かわいそうな人なのか?
最後に
このように自己責任を振りかざしすぎると、ブーメランのようにいつか自分もその罠に落ちていきます。だったらせめて、当事者しか語れない部分には、土足でズカズカと入り込むものではないと感じました。以上です。
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