今年もあと2ヶ月で終わります。
今年はどんな一年だったかと言えば、「まさか」の年だった、の一語に尽きます。
大切な大切な親友が、「余命一年」の宣告を受けたことは、私にとってとても重い出来事です。
今もまだ受け止めきれないでいます。高校1年で知り合い、今日までずっと長い時間を共に過ごしてきて、ずっとこれからも一緒に楽しい時間を過ごせるものと信じてきました。それなのに・・。
人はいつかこの世を去ります。わかっています。そんなのは当たり前です。
若くして亡くなる人だって世の中、沢山いるのですから。
それどころか、年端もいかない子どもだって沢山命を落としています。自分には何の非もないのに、理不尽な最期を迎える人だって沢山います。
それもわかっています。頭ではわかっているけど、心がどうしても納得できないでいるのです。
それがもし、私よりずっと年上の人で、年寄りなら仕方ないかなと思えるけど、親がまだ生きているのに、なんで順番をきちんと守らないの?
そんな思いが頭の中をぐるぐる回るのです。
自分の子供を虐待して殺すような、生きていても害になるだけのケダモノだって世の中にはいるというのに、なんでそういうのがのうのうと生きているというのに、彼女なのでしょうか?
こんな不公平があっていいの?色んな思いが頭をよぎります。整理がつかない状態です。
そして、自分の年齢についても考えるきっかけになりました。私はまだ、いつ死んでもいいという年寄りではありません。でも、身近に命の期限を告げられた人を見ると、そういうことがあってもおかしくない年でもあるんだなと実感します。夫にこう聞いてみました。「あと一年の命だとしたら、何をする?」と。
よく「死ぬまでにしたい○○のこと」なんてあるけど、質問の趣旨はそういう意味です。
すると夫はこう答えました。「特別な何かをするのではなく、いつもと変わらず淡々とした生活の中でその日を迎えたい」と。
これは私も全く同じです。この世を去る前に旅行したいとか、贅沢したいとか、何か特別のことをしたいとは思いません。
今の生活のまま、その日を静かに迎えたいです。ただし、残される者がいるなら、私がこの世から消えても困らない最低限の準備だけはしておきたいと思います。
金銭的なことであれ、事務的なことであれ、それが何かは今はわからないけど、私がいなくなったことで困る誰かがいるとするなら、それだけはしておきたいのです。
けれどそういう人がいないなら、自分のためだけに残された時間を使いたいと思います。何もしたくないならしなくてもいい。それも自らの選択ですから。それによって誰にも看取られることがない、孤独な死を迎えたとしても仕方ないと思います。
よく思うのは、愛する人に旅立たれて一人残されるのも嫌だし、愛する人をこの世に残して旅立つのも嫌だということです。今はまだ、現実的な何かを考えるまでには至りません。これはきっと、命の期限を告げられた人でなければわからないことかもしれませんね。
ただあっぱれな死に方をしたなと思うのは、流通ジャーナリストの金子哲夫さんです。
生前の、あの無邪気で屈託のない笑顔の裏に隠された芯の強さは、言うまでもなく残された奥さんに対する愛情の深さそのもの。
改めて凄い人だなぁと思った次第です。
「人は生きてきたようにしか死なない」と言うけど、その言葉はまさに金子さんのためにあるような言葉です。
金子さん自身も、あれだけのことをして旅たったなら、心を残すことなく安心して旅立つことができたでしょう。自分の死期がわかったら、金子さんほどのことはできないまでも、静かに安らかな気持ちでその日を迎えるために、身辺の準備はしておきたいと思います。
そして最期の時は、いつもの日常の中で静かに旅立ちたいと思います。
・・と、ここまで書いて思いました。私にとってまだ死というものは身近ではありません。けれど遥か遠くのことでもないのです。自分に近い人を何人か見送っていくうちに、身近になっていくのでしょうか?
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