2008.04.03 Thursday
現在近所の犬をみんなで世話している。
今年13歳になる雑種犬・プー太郎。

家主はギャンブルに明け暮れ、夜逃げ同然で犬だけを置き去りにして出ていった。元々家主がいるときからほとんど世話をされている様子もなく、いつも繋がれっ放しで食事も水も時々しか貰えない生活。当然散歩もしたことがない。糞尿だらけの犬小屋は雨漏りがして予防接種も(多分)やってもらってないと思われる。
それだけではない。プー太郎は何年か前から首に大きな腫瘍が出来てしまった。年々大きくなり、動くたびに首輪に肉腫が食い込み、それがこすれて傷になり、やがて化膿して、という繰り返し。腫瘍の大きさは血膿がたまり、とうとうマーティの頭くらいにまで膨れ上がってしまった。夏場になると傷口にウジがわき、強烈な悪臭を放つ。やがて歩けなくなったしまった。腫瘍が大きくなりすぎて体のバランスが取れないからだ。それに動けば首輪がこすれて激痛がするので動くにも動けなかったのだろう。まさに地獄絵図。飼い殺しとはこのことだ。
近所でもどうしたらいいものかと思案した挙句、近くにある動物病院に片っ端から当たってみた。まずどこの病院でも当然やりたがらない。飼い主さんの許可がどうのこうのというのだ。お金は取れないし、何かあったときの責任問題に巻き込まれたくないからだろう。許可もクソもない。飼い主は文句なんて言える立場じゃないんだから。あのまま放置するほうがよっぽど残酷な話だ。要するに金にならない面倒くさそうな仕事には関わりたくないという態度が丸見え。
そんな中、ただ一人だけ足を運んでくれた先生がいた。
マーティとヴィオレがお世話になっている病院の先生だ。
ひと目見た瞬間、最初は信じられないという顔をして絶句していた。
次に周りの様子を見て天を仰ぎ、「はぁー」と大きくため息。
「私がやります。私にはこんなことくらいしかできないから・・・
いや、むしろ今後も皆さんと一緒にお手伝いをさせてください」
更には今後の医療費は一切いらないと言う。無償でプー太郎の医療面の面倒をみてくれるというのだ。他の獣医たちとは大違いだ。即刻入院、そして手術。上の写真は先週の土曜日、退院した直後に撮影したもの。まだ抜糸はすんでいないけど、経過はとても良好。散歩も元気よく行っている。すでにフェラリアになっているため、毎月薬を飲ませることになった。その薬代もいらないから、餌とか散歩などの日常の世話だけしてくれと言われた。入院している最中、私たちはお金を出し合って新しい犬小屋と散歩用のリードを買ってあげた。周りの汚物の掃除も済ませ、清潔な環境で暮らせるように手配して過ごした。
それにしても獣医さんも色々だ。
多くの獣医さんのその職に就く最初の動機というのは、ただ単純に純粋に動物が好きだから、というシンプルなものが多いと思うのだが、そんな最初の気持ちを、いつしか"日常"の中に置き忘れてしまう人が多いようだ。確かに最初の情熱をそのまま維持することは難しいし、すべては同じまま留まってはいない。物事は移り行く。それは止めようもないことで、それが人生なのだと思う。でもこの先生だけは後先考えずに行動してくれた。あの惨状を見て自分の内から湧き出る、突き動かされるような気持ちのみで行動したのだと思う。見ていてそんな感じだったもの。本物の獣医というのは、こういう心を持った人なのだと思った。
何かの行動を起こすとき、見返りを求めたり相手に認めてもらうためにやるのは本気ではないと私は思っている。
デモンストレーションでしかない。
そんなものは自分の内側から湧き出てくる本気ではないから長続きしない。
本気じゃないから、やってるうちにフラストレーションがたまる。
そして相手が自分の期待した反応をしないと、「ここまでやってるのに認めようともしない」と逆ギレしたり、無責任に投げ出したりするのだ。
私はもう、そんなニセモノはうんざりだ。
でも本気の行動はずっと続く。全てにおいてね。
プー太郎が生きてこれたのは、こんな近所の善意の力によるものだ。元の飼い主は近くの貸家にいるらしいが、「ごめんね、貸家だからプー太郎を連れていけないの」と言いながら、ちゃっかりポメラニアンを飼っているとか。冗談じゃない。それでも飼い主には事後承諾という形で知らせた。
というか、最初は手術の許可を貰いに行ったのだけど、何をどう言っても、どう言葉を尽くしても「はぁー」の一言だけ、それ以上の反応は一切なし。
ラチがあかないのだ。
そうしている間だってプー太郎は苦しんでいるというのに。
反応がないどころか、自分の意思も感情も全くないという感じ。
もう全てが受身で全く言葉が通じないのだ。
まるで宇宙人と会話しているみたい。
これが四十代も半ばを過ぎた男の姿なのだろうか?
そもそも宇宙人に地球人の常識を教えても無理なのだ。
まるで「未知との遭遇」を現実に体験した気分。
私は人を変えることなどけして出来ないと信じている。
ならばどこかの宇宙人よ。
お願いだから、UFOで迎えに来てどこかの星に連れ去っておくれ・・・
お願いだから、跡形もなく消し去っておくれ・・・
さて、世話をすることになったのは私の他に4人くらいいるのだけど、みんなそれぞれ犬を飼っている。ヨークシャーテリアとかシーズーとかの小型犬なのだが、ただ一人だけプー太郎くらいの大きさの犬を飼っているのは、すぐお隣に住む方のみ。その方はプー太郎の隣人ということもあって、いつもフェンス越しにプー太郎の様子を気にかけて見てくれていた。
そこで昨日、私が初の散歩当番となったので、その方に付き合ってもらって散歩をさせてみた。んまぁーーー、とにかくびっくり。引っ張る力も然ることながら、13年間、人との触れあいが全くないような野良犬同然の犬の勝手気ままさというのにはまず驚かされる。車が来たってお構いなしで車に向かって突進していく。なので遊歩道しか歩けない。「マテ」もクソもない。これまで人との関わりがロクにないから言葉を知らないのだ。犬は言葉を理解しないけれど、ニュアンスで感じ取るとされている。そのニュアンスすら知らないのだ。「何ができなくてもいいから、とにかく危ないときには止まってくれたらいいね」とは言いつつも、今更そんな人間の都合など通じるわけもなく、ついたあだ名が「破壊大魔王」
それに引き換え、マーティとヴィオレの散歩はなんと楽なことかと、つくづく思い知らされた。私と一緒に歩くという意識があって、ちゃんと注目するし、常にこちらに意識が向いている。たとえそれが余所見していてもだ。すでにそれが当たり前なのだ。一方のプー太郎は、そんな意識は全くない。人と一緒に歩くのが散歩とは思ってないのだ。もっとも前の飼い主は散歩を面倒がり、夜になると「勝手に散歩してこい」とばかり犬を放していた。そんな環境でありながら人に対する信頼感はまだ失っておらず、性格だけはとても良い。他犬とすれ違っても関係ないって顔してるし、誰にでもすぐになついて甘える。おとなしい性格ではあるけど、別段臆病というわけでもなく、どちらかといえば陽気な性格で扱いやすい犬だ。でも従うことはしない。というより、従い方を知らないのだ。人のぬくもりに飢えていただけで、最近ではみんなに甘える仕草も見せるようになった。そんなプー太郎を見ているといつもこう思う。
痛かったろう、お腹がすいていたろう、水が飲みたかったろう、つらかったねって。もっと早くに苦しみを取り除いてあげたかったよ、ごめんねって。
だけど私はこう思った。
この飼い主は信性のバカだと。
こんな滅多にいない性格の良いコをせっかく飼ったのなら、なんでもっと大切に扱わなかったのかと。ちゃんと躾けて大事に飼えば、とても飼いやすい最高の家庭犬になってたはずなのに、なんともったいないこと。
命に対するありがたみも感謝もないんだと思った。
子犬を見た→可愛い→欲しい→飼った
でもいうことをきかない(教えてないんだから当然だ)
こんなはずじゃなかった・・
あらら、なんだか予想したより大きくなっちゃったし、世話も面倒・・・
あら、嫌だわ、病気になっちゃったじゃない、お金がかかるわ・・・
やっぱり他の犬の方が可愛いかしら・・
うん、面倒だから取替えちゃおう!
もう年だし、そのうち死ぬでしょ。
これがその人の生き様。
要するに、人生とか、生活というものに全く興味がないんだうな・・・
命の重みすら軽く見ている。
いまだにそんな人間がいるかと思うと口惜しい。
しかもまた飼っているなんて。
興味がないからわからない。わからないどころか、考えることすら放棄している。ただ逃げるだけ。逃げるということは、要するに彼にとっては自分の人生でありながら、他人事でしかないのだ。私は逃げるヤツは大嫌いだ。彼にとって興味があるのは、どのパチンコ台が出るかとか、そんなことくらいなのかも。いつも誰かが尻拭いしてくれて、それで何とかなってきたもんだから、それで良いと思って生きてきたのだろう。本気でどうにかしようと思うのなら、どんな手を使ってでもまず行動するはずだ。どんなに逃げたって自分からは永久に逃げられないと、いつかは思い知るだろう。
私は“日常”は怖いものだと思う。人生の99%は“日常”で構成されているけれど、その中に大切なものが埋没しても気づかない。
「今やらなくても明日があるさ」
こういう考え方は昔も今も大嫌いだ。
明日何が起こるかなんて本当は誰もわからないことなのに、今日の延長がずっと続くと思っている。特に犬と暮らしていると、年月があっという間に過ぎていく。限りある命だということすら"日常"の中で忘れてしまいがちになる。でもせいぜい15年かそこらの限りある命なのだ。それを知っている人間は、今日が、今が、どれほど大切かを痛いほど感じる。私はエクサイティングなことが欲しいわけではない。毎日ワクワクしたり、毎日しあわせで生きることなんかできないのもわかっている。だけど、大切なものを“日常”に埋没させてしまうのはイヤだ。
私は少し前にある人からこう言われた。
「ヴィオレにしたって、あと2年もすれば良くなる。
マーティだって、まだあと何年かはそこそこ遊べる」と。
それを聞いて激怒した。私は生半可な遊び気分でマーティに接したことなど一度もない。向き合うときはいつも真正面から真剣に向き合ってきた。限りのある尊い命だというのを嫌というほど知っているからだ。だからこそ、私にとっては一瞬一瞬が竣玉の宝物のような時間なのだ。
私にとって2匹は愛そのものだ。愛をまとった天使たちだと思っている。
体は小さいけれど、私の中ではとてつもなく大きな存在になっている。
愛という煌き、小さい煌きだとしても、それを煌き続けさせるには努力しなければいけない。そして、その「努力してでも煌かせ続けたい」と思う原動力は愛なのだ。人はよく"愛情"という言葉を簡単に口にするけれど、実は厳しいものだということを知らなすぎる。見返りを求めて行動するのは愛ではなく取引だ。犬を飼うならそのくらいの気持ちで飼うべきだ。そしてこれは飼い主だけではなく、生きものを扱う業者全てについても言えること。今回の手術を担当してくれた先生の勇気には、ただただ頭が下がる思いだ。
さて今日の午後は私の当番。
立て続けに3匹の散歩をすると疲れる。
でもよその犬を散歩させてみると、いかにうちのコたちが素晴らしいかというのを再認識する。"日常"の中にも小さな発見はあるものだ。今更プー太郎を人間社会の枠にはめることは無理かもしれないが、せめてこちらの存在を認識して歩いてくれたらいいなぁと期待しているところ。
今年13歳になる雑種犬・プー太郎。

家主はギャンブルに明け暮れ、夜逃げ同然で犬だけを置き去りにして出ていった。元々家主がいるときからほとんど世話をされている様子もなく、いつも繋がれっ放しで食事も水も時々しか貰えない生活。当然散歩もしたことがない。糞尿だらけの犬小屋は雨漏りがして予防接種も(多分)やってもらってないと思われる。
それだけではない。プー太郎は何年か前から首に大きな腫瘍が出来てしまった。年々大きくなり、動くたびに首輪に肉腫が食い込み、それがこすれて傷になり、やがて化膿して、という繰り返し。腫瘍の大きさは血膿がたまり、とうとうマーティの頭くらいにまで膨れ上がってしまった。夏場になると傷口にウジがわき、強烈な悪臭を放つ。やがて歩けなくなったしまった。腫瘍が大きくなりすぎて体のバランスが取れないからだ。それに動けば首輪がこすれて激痛がするので動くにも動けなかったのだろう。まさに地獄絵図。飼い殺しとはこのことだ。
近所でもどうしたらいいものかと思案した挙句、近くにある動物病院に片っ端から当たってみた。まずどこの病院でも当然やりたがらない。飼い主さんの許可がどうのこうのというのだ。お金は取れないし、何かあったときの責任問題に巻き込まれたくないからだろう。許可もクソもない。飼い主は文句なんて言える立場じゃないんだから。あのまま放置するほうがよっぽど残酷な話だ。要するに金にならない面倒くさそうな仕事には関わりたくないという態度が丸見え。
そんな中、ただ一人だけ足を運んでくれた先生がいた。
マーティとヴィオレがお世話になっている病院の先生だ。
ひと目見た瞬間、最初は信じられないという顔をして絶句していた。
次に周りの様子を見て天を仰ぎ、「はぁー」と大きくため息。
「私がやります。私にはこんなことくらいしかできないから・・・
いや、むしろ今後も皆さんと一緒にお手伝いをさせてください」
更には今後の医療費は一切いらないと言う。無償でプー太郎の医療面の面倒をみてくれるというのだ。他の獣医たちとは大違いだ。即刻入院、そして手術。上の写真は先週の土曜日、退院した直後に撮影したもの。まだ抜糸はすんでいないけど、経過はとても良好。散歩も元気よく行っている。すでにフェラリアになっているため、毎月薬を飲ませることになった。その薬代もいらないから、餌とか散歩などの日常の世話だけしてくれと言われた。入院している最中、私たちはお金を出し合って新しい犬小屋と散歩用のリードを買ってあげた。周りの汚物の掃除も済ませ、清潔な環境で暮らせるように手配して過ごした。
それにしても獣医さんも色々だ。
多くの獣医さんのその職に就く最初の動機というのは、ただ単純に純粋に動物が好きだから、というシンプルなものが多いと思うのだが、そんな最初の気持ちを、いつしか"日常"の中に置き忘れてしまう人が多いようだ。確かに最初の情熱をそのまま維持することは難しいし、すべては同じまま留まってはいない。物事は移り行く。それは止めようもないことで、それが人生なのだと思う。でもこの先生だけは後先考えずに行動してくれた。あの惨状を見て自分の内から湧き出る、突き動かされるような気持ちのみで行動したのだと思う。見ていてそんな感じだったもの。本物の獣医というのは、こういう心を持った人なのだと思った。
何かの行動を起こすとき、見返りを求めたり相手に認めてもらうためにやるのは本気ではないと私は思っている。
デモンストレーションでしかない。
そんなものは自分の内側から湧き出てくる本気ではないから長続きしない。
本気じゃないから、やってるうちにフラストレーションがたまる。
そして相手が自分の期待した反応をしないと、「ここまでやってるのに認めようともしない」と逆ギレしたり、無責任に投げ出したりするのだ。
私はもう、そんなニセモノはうんざりだ。
でも本気の行動はずっと続く。全てにおいてね。
プー太郎が生きてこれたのは、こんな近所の善意の力によるものだ。元の飼い主は近くの貸家にいるらしいが、「ごめんね、貸家だからプー太郎を連れていけないの」と言いながら、ちゃっかりポメラニアンを飼っているとか。冗談じゃない。それでも飼い主には事後承諾という形で知らせた。
というか、最初は手術の許可を貰いに行ったのだけど、何をどう言っても、どう言葉を尽くしても「はぁー」の一言だけ、それ以上の反応は一切なし。
ラチがあかないのだ。
そうしている間だってプー太郎は苦しんでいるというのに。
反応がないどころか、自分の意思も感情も全くないという感じ。
もう全てが受身で全く言葉が通じないのだ。
まるで宇宙人と会話しているみたい。
これが四十代も半ばを過ぎた男の姿なのだろうか?
そもそも宇宙人に地球人の常識を教えても無理なのだ。
まるで「未知との遭遇」を現実に体験した気分。
私は人を変えることなどけして出来ないと信じている。
ならばどこかの宇宙人よ。
お願いだから、UFOで迎えに来てどこかの星に連れ去っておくれ・・・
お願いだから、跡形もなく消し去っておくれ・・・
さて、世話をすることになったのは私の他に4人くらいいるのだけど、みんなそれぞれ犬を飼っている。ヨークシャーテリアとかシーズーとかの小型犬なのだが、ただ一人だけプー太郎くらいの大きさの犬を飼っているのは、すぐお隣に住む方のみ。その方はプー太郎の隣人ということもあって、いつもフェンス越しにプー太郎の様子を気にかけて見てくれていた。
そこで昨日、私が初の散歩当番となったので、その方に付き合ってもらって散歩をさせてみた。んまぁーーー、とにかくびっくり。引っ張る力も然ることながら、13年間、人との触れあいが全くないような野良犬同然の犬の勝手気ままさというのにはまず驚かされる。車が来たってお構いなしで車に向かって突進していく。なので遊歩道しか歩けない。「マテ」もクソもない。これまで人との関わりがロクにないから言葉を知らないのだ。犬は言葉を理解しないけれど、ニュアンスで感じ取るとされている。そのニュアンスすら知らないのだ。「何ができなくてもいいから、とにかく危ないときには止まってくれたらいいね」とは言いつつも、今更そんな人間の都合など通じるわけもなく、ついたあだ名が「破壊大魔王」
それに引き換え、マーティとヴィオレの散歩はなんと楽なことかと、つくづく思い知らされた。私と一緒に歩くという意識があって、ちゃんと注目するし、常にこちらに意識が向いている。たとえそれが余所見していてもだ。すでにそれが当たり前なのだ。一方のプー太郎は、そんな意識は全くない。人と一緒に歩くのが散歩とは思ってないのだ。もっとも前の飼い主は散歩を面倒がり、夜になると「勝手に散歩してこい」とばかり犬を放していた。そんな環境でありながら人に対する信頼感はまだ失っておらず、性格だけはとても良い。他犬とすれ違っても関係ないって顔してるし、誰にでもすぐになついて甘える。おとなしい性格ではあるけど、別段臆病というわけでもなく、どちらかといえば陽気な性格で扱いやすい犬だ。でも従うことはしない。というより、従い方を知らないのだ。人のぬくもりに飢えていただけで、最近ではみんなに甘える仕草も見せるようになった。そんなプー太郎を見ているといつもこう思う。
痛かったろう、お腹がすいていたろう、水が飲みたかったろう、つらかったねって。もっと早くに苦しみを取り除いてあげたかったよ、ごめんねって。
だけど私はこう思った。
この飼い主は信性のバカだと。
こんな滅多にいない性格の良いコをせっかく飼ったのなら、なんでもっと大切に扱わなかったのかと。ちゃんと躾けて大事に飼えば、とても飼いやすい最高の家庭犬になってたはずなのに、なんともったいないこと。
命に対するありがたみも感謝もないんだと思った。
子犬を見た→可愛い→欲しい→飼った
でもいうことをきかない(教えてないんだから当然だ)
こんなはずじゃなかった・・
あらら、なんだか予想したより大きくなっちゃったし、世話も面倒・・・
あら、嫌だわ、病気になっちゃったじゃない、お金がかかるわ・・・
やっぱり他の犬の方が可愛いかしら・・
うん、面倒だから取替えちゃおう!
もう年だし、そのうち死ぬでしょ。
これがその人の生き様。
要するに、人生とか、生活というものに全く興味がないんだうな・・・
命の重みすら軽く見ている。
いまだにそんな人間がいるかと思うと口惜しい。
しかもまた飼っているなんて。
興味がないからわからない。わからないどころか、考えることすら放棄している。ただ逃げるだけ。逃げるということは、要するに彼にとっては自分の人生でありながら、他人事でしかないのだ。私は逃げるヤツは大嫌いだ。彼にとって興味があるのは、どのパチンコ台が出るかとか、そんなことくらいなのかも。いつも誰かが尻拭いしてくれて、それで何とかなってきたもんだから、それで良いと思って生きてきたのだろう。本気でどうにかしようと思うのなら、どんな手を使ってでもまず行動するはずだ。どんなに逃げたって自分からは永久に逃げられないと、いつかは思い知るだろう。
私は“日常”は怖いものだと思う。人生の99%は“日常”で構成されているけれど、その中に大切なものが埋没しても気づかない。
「今やらなくても明日があるさ」
こういう考え方は昔も今も大嫌いだ。
明日何が起こるかなんて本当は誰もわからないことなのに、今日の延長がずっと続くと思っている。特に犬と暮らしていると、年月があっという間に過ぎていく。限りある命だということすら"日常"の中で忘れてしまいがちになる。でもせいぜい15年かそこらの限りある命なのだ。それを知っている人間は、今日が、今が、どれほど大切かを痛いほど感じる。私はエクサイティングなことが欲しいわけではない。毎日ワクワクしたり、毎日しあわせで生きることなんかできないのもわかっている。だけど、大切なものを“日常”に埋没させてしまうのはイヤだ。
私は少し前にある人からこう言われた。
「ヴィオレにしたって、あと2年もすれば良くなる。
マーティだって、まだあと何年かはそこそこ遊べる」と。
それを聞いて激怒した。私は生半可な遊び気分でマーティに接したことなど一度もない。向き合うときはいつも真正面から真剣に向き合ってきた。限りのある尊い命だというのを嫌というほど知っているからだ。だからこそ、私にとっては一瞬一瞬が竣玉の宝物のような時間なのだ。
私にとって2匹は愛そのものだ。愛をまとった天使たちだと思っている。
体は小さいけれど、私の中ではとてつもなく大きな存在になっている。
愛という煌き、小さい煌きだとしても、それを煌き続けさせるには努力しなければいけない。そして、その「努力してでも煌かせ続けたい」と思う原動力は愛なのだ。人はよく"愛情"という言葉を簡単に口にするけれど、実は厳しいものだということを知らなすぎる。見返りを求めて行動するのは愛ではなく取引だ。犬を飼うならそのくらいの気持ちで飼うべきだ。そしてこれは飼い主だけではなく、生きものを扱う業者全てについても言えること。今回の手術を担当してくれた先生の勇気には、ただただ頭が下がる思いだ。
さて今日の午後は私の当番。
立て続けに3匹の散歩をすると疲れる。
でもよその犬を散歩させてみると、いかにうちのコたちが素晴らしいかというのを再認識する。"日常"の中にも小さな発見はあるものだ。今更プー太郎を人間社会の枠にはめることは無理かもしれないが、せめてこちらの存在を認識して歩いてくれたらいいなぁと期待しているところ。
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